濡れない女

大野真智子は濡れない女だ。どのくらい濡れないかといえば、時間雨量30ミリを超える土砂降りの中、傘も差さずに家から学校まで20分かけて歩いても、下着はもちろん制服も乾いたままで、雨しずくも泥しぶきも全く付着していない、という具合だ。どういう仕掛けでそうなっているのかはわからないが、生まれてこの方16年、ずっと完全防水仕様で生きてきた。
「あ、今日は休みなんだ……」
学校に着いても人影がまばらなので用務員のおじさんに尋ねてみると、昨夜から大雨洪水警報が発令されていて、今朝になっても解除の見込みがないため、臨時休校になったという。こんな事なら家を出る前に天気予報で確認しておけばよかったと肩を落とし、真智子は再び20分歩いて家に帰った。
真智子はどことなくずれている。
特に運動神経が鈍いとか、勉強がからっきし駄目とか、そういうことはなくて、別にクラスのみんなから虐められているわけでもなければ、家庭内暴力の被害に遭っているわけでもない。濡れない女だということを除けば、ごく見かけはごく平凡な女子高生だ。いや、身長172cmで上半身がいつもふらついているので、もしかしたら見かけも少しは変わっているかもしれない。でも、それは大したことではない。真智子のずれはもっと内面的なもので、それはたとえば時間雨量30ミリを超える土砂降りの中いつもと同じように登校するという行動にあらわれているのだけれど、それで彼女の心理的傾向を解き明かしたことにはならないだろう。人間って難しいなぁ。
それはともかく、真智子は濡れない女だ。夏の体育の時間には体操服を着て25m泳いだこともある。いちおうクロールだったらしいけど、プールの水が逃げていくような状況でどうやって推進力を得たのかは想像もつかないから、詳しく描写することができない。ごめんなさい。そういや、お風呂はどうしているんだろうか? 気になるなぁ。
さて、そうこうするうちに真智子は家に帰り着いた。2階に上がって自分の部屋に閉じこもり、なにやらぶつぶつ呟いている。何言ってるんだろう?
「ああ、もう。私ってどうしてこうなんだろう。ほんとは私も素敵な人と相合傘で肩を寄せ合って歩きたいのに。そして、喫茶店で雨宿りして、ジャンボパフェを二人ではんぶんこ……」
おお、見かけによらず乙女チックだ。
「見かけによらず、ってのは余計よ」
あ、聞こえてた? ごめん。
ちょっと雰囲気が悪くなったので、時間を早回ししてごまかそう。
次の場面は翌日の放課後。
昨日とは打って変わって上天気、太陽は燦々と照り輝き、路地に駐車した乗用車の屋根の上で目玉焼きが焼けそうなほどだ。真智子は帰宅部だから学校に残っていても仕方がないし、でも校舎から一歩外に出ようとすると、ちりちりと焦げ付くような熱さで足がすくむ。
「あ〜あ。異常気象なのかな」
腰に手を当てて仁王立ち。何となく迫力があるので、男子生徒も上級生も彼女を避けて小走りに通り過ぎる。でも真智子は気にしない。ていうか、気づいていない。
と、そのとき。
「大野さん……」と斜め下から声がした。
「参ったなぁ。これじゃ、家に帰り着く頃には照り焼きになってるよ」
いや、それはさすがに誇張しすぎだぞ。
「大野さん……どうしたの?」
「頭から水をかぶって焦土を突っ切るか……って、そりゃ駄目だよね。なんたって、濡れない女なんだから」
斜め下の声の主はしゅんとしてしまった。人間、無視されることほど辛いことはない。
大野真智子、お前は外道か! 鬼畜か!
「ん?」
ようやく、傍らに人がいることに気づいたようだ。
「あ、ごめんごめん。今、私のこと呼んだ?」
真智子は視線を足下に向ける。そこに、かわいい、ちっちゃい女の子が立っていた。なお、ここでいう「ちっちゃい」は年齢ではなくて、体位のことを指しています。この小説に登場する女の子は全員18歳以上です。ランドセル背負ってても18歳ですんで、そこんとこよろしく。
「嘘ぱっかり。私も小町ちゃんも16歳だよ」
そう、嘘だ。
いま真智子が「小町ちゃん」と呼んだ相手は、真智子と同じクラスの小野小町だ。名前だけみれば小町ちゃんほうが「濡れない女」という感じだけど、残念ながらふつうの女の子だ。身長148cm、体重はナイショ、趣味は手芸と大正琴。出席番号は一番違いだが特に親しいわけじゃなくて、こうやって小町ちゃんに話しかけられたのは同じクラスになってから初めてかもしれない。
「どうしたの、ってどうしたの?」
「んとね……大野さん……なんだか…困ってるみたいだった……から」
小町ちゃんはなんだかおどおどした様子で、一言ひとこと確認しながら口に出しているかのようだが、これはいつものことだ。特に真智子に恐れをなしているわけではない……と思う。ちなみに、こんな場合に「・・・」を使うのはドシロートのやることだから、みんな気をつけようね。
「いや、なんだか日差しがきつくて嫌だなぁ、って」
「じゃあ……あたし…んいいもの持ってる」
こう言って小町ちゃんがランドセル、もとい、学生鞄から取り出したのは、レースの飾りのついた華やかな日傘だった。けっこう大きい。小町ちゃんはよたよたと傘に振り回されながら、それをぱっと開いた。傘の陰に隠れて姿が見えなくなった。
「ね、これなら……二人でも入れるでしょ? 一緒に帰ろっ!」
小町ちゃんは爪先立ちで真智子に日傘を差し向ける。
ああ、念願の相合傘。お相手は素敵な素敵なお人形さんのような美少女だ。願いがかなってよかったね。
「ん。……むむむ」と真智子は唸り……そして、そっと手を伸ばした。
精一杯背伸びした小町ちゃんが差し出した日傘の柄を取って、真智子は逆に小町ちゃんのほうに差し掛け、「ありがと」と言った。
途中でちゃんと喫茶店に寄って、ジャンボパフェをはんぶんこするんだよ。