雨が降るのと犬が走るのとはどう違うのか?

雨が降る。これは一つの出来事だ。
犬が走る。これも一つの出来事だ。
そう言ってしまえば、両者の間には構造的な違いは何もないように見える。もちろん、犬は生物だが雨はそうではない、とか、雨は数えられないが犬は数えられる、とか、そのようなレベルの違いはいくらでも挙げることが可能だ。だが、そんな瑣末なことではなく、もっと大きな違いが二つの出来事の間にはある。
犬が走るという出来事について考えてみよう。この出来事には当然犬が登場する。まず犬がいて、それが走る。この出来事はそのような構造をもっている。
対して、雨が降るという出来事は、そのような構造をもってはいない。まず雨があって、それが降る……ということはないのだ。端的に、雨が降る。降るということから切り離された雨、すなわち、降らない雨などというものは存在しない。雨は雨である限り、降る。
走る犬もいれば、走らない犬もいる。犬にとって走るということは本質的な事柄ではない。だが、降らない雨はないのだから、雨にとって降るということは本質的だ。そう結論づける哲学屋もいるかもしれないが、そのような戯言には耳を貸さないほうがいい。二つの出来事の違いは、本質/遇有といった形而上学的なものではなく、単に言語的なものとして説明可能なのだから。
水が空から降ってくるとき、それが液体であれば「雨」と呼ばれる。固体であれば、「雪」とか「雹」とか「霰」などと呼ばれるだろう。ただ、それだけのことなのだ。