変化しない探偵と「オーデンの呪い」


で、「すべてがFになる」がまっとうなミステリーであるとしてなのですが、読んで「あれ?」っと思ったこと。探偵役の犀川助教授と萌絵(「S&M」と呼ぶそうですが)は、事件に関わっても変化しないんですね。探偵は当然、事件に関わる存在です。しかも「すべてがFになる」では探偵は当事者にもなっています。けれども、事件によって探偵の人生が変わるわけではないし、事件の謎が解決されようがされまいが痛くもかゆくも…いや、まぁ、探偵としてのプライドが傷つくかもしれませんが、命に別状はありません。作品によって違いはあるでしょうが、定形的な(古典的?本格?)ミステリーにおける探偵の立場と言うのは「事件」というストーリーに対して、あくまで部外者であり観察者であるようなのです。
(略)
こういう立場にいながら、探偵は事件を解決すると言う重要な役割を持っています。それは一方的な関係であり、探偵は事件を左右することがあっても、事件が探偵を左右することはありません。普段ミステリーを読まない私にとっては、このことがとても新鮮でした。
この文章を読んで「オーデンの呪い」という言葉を思い出した。探偵小説の登場人物には決して成長することができないという呪いがかかっている、というような話だったと記憶しているのだが、正確にはどういうことを言っているのか知らないので、検索してみた。
……出てこない。
オーディンの呪い」ならいくらでもヒットするのだが……。
仕方がないので、本の山を漁って、「オーディンの呪い」に関する資料を探した。およそ1時間後、すっかり変色した「EQ」1987年11月号を本の山から発掘した。江戸川乱歩の「類別トリック集成」の原簿が新発見(当時)され、それが一挙に掲載された号だ。当時、「EQ」は定期購読していなかったが、この号だけは買ってあったのだ。表紙を飾るはかの有名なアイザック・アシモフ。ああ、懐かしい。感慨にひたること、およそ1時間。
我に返ったので続ける。
この号に「来るべきミステリー」というコラムが掲載されている。筆者は若林鏡太郎という人物だ。教科書会社に勤務する平凡なサラリーマン、とだけ書かれていて、素性はよくわからない。筆名の由来が『水夏〜suika〜』に登場する精神科医『ドグラ・マグラ』に登場する精神科医であることに間違いはないが、それでは何の手がかりにもならない。手がかりになりそうなデータは、このコラムのイラストを描いているのが竹本健治で、本文中にも何度か竹本健治に言及しているということぐらいだ。
だが、筆者の正体の詮索はこれくらいにして、内容を見ることにしよう。

ミステリーとは、先行する幾多のミステリー(ミステリーと限らなくともよい)があって初めて成立する、モザイクのようなものだ。
この洞察に満ちた一文から始まり、ミステリの特質に関する卓見が、ファジー論理や人間機械論などを援用しつつ展開されている。そして、最後の節で「オーデンの呪い」が登場する。

ミステリーにおける「犯罪の動機」というやつ。これは重要なテーマのはずなのだが、どれもこれも同じようなもので――現金その他の利益を得るための犯罪か、復讐か、地位保全(過去・現在の犯罪の隠蔽など)――まったくうんざりさせられる。かつて「社会派推理小説」というものがあらわれたとき、「動機を重視しなければならない」というテーゼがあったが、だが、実際にはロクなものが出なかった。
なぜだろうか? これには、「探偵小説では殺人事件という決定的な事件がおっているのであるから、人物が行動するうちに、あるいはその行動によって、性格が変化していくということがない」とするW・H・オーデンの、一般には「オーデンの呪い」として知られる説明がなされている。
黄金期のミステリー作家は、当時のミステリーに対する要件を満たすため、「オーデンの呪い」に従い、まるでソ連女子体操チームのコーチのように、支配下のキャラクターに成長抑止剤を用いた。
だが、成長しようとするものを無理矢理抑えることもあるまい。成長を許容しないパラダイムは打ちこわすべきだ。
「来るべきミステリー」は「オーデンの呪い」を超えなければならない。
あれ? これは探偵役というよりは犯人の側に力点を置いているので、ぎをらむ氏の指摘とはかなり違っている。似ていると思ったが、記憶違いだったか……。でも、まあ、「変化しない探偵」というのも「オーデンの呪い」の一形態だと言えなくはない。*1
「来るべきミステリー」が発表された1987年当時、ソ連はまだ崩壊していなかったし、アシモフも存命だった。綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』が発売されたのは同年9月だから、たぶん若林鏡太郎は読んではいなかっただろう。まだ「新本格推理」などという宣伝文句も使われていなかった。そのような時代背景を考えながらこのコラムを読み返すと、その恐るべき洞察力に舌を巻くしかない。失礼ながら、「来るべきミステリー」がその後に活躍するミステリ作家の多くに読まれたとは考えにくい。*2とすれば、若林氏は確かに「来るべきミステリー」を見通していたのだ。
だが、「来るべきミステリー」*3を通過してしまった後になってみると、「オーデンの呪い」の超克という主張も相対化されてしまう。むしろ、変化しないキャラクターに新鮮味を感じたぎをらむ氏のほうが潜在的なミステリーの作者*4の思いを代表しているのではないか。
ところで、ミステリの登場人物の類型について、興味深い考察を見かけたので、リンクしておく。

*1:単に、ミステリにおける探偵役は狂言回しに過ぎない、と言ってしまってもいいような気もするが。

*2:ただし、以前あるミステリ系イベントで巽昌章がこのコラムに言及していた。ある意味で若林氏と対極の方向にいる人だけに、巽氏がどのような評価をしているのか知りたかったのだが、質問の時間がなかったのが残念だ。

*3:もちろん、1987年当時にとっての「来るべきミステリー」という意味だが。

*4:「来るべきミステリー」を読んでいない人には意味不明の表現であり、申し訳ない。わからない人はとりあえず「読者」と読み替えてください。