また出た!「リリカル・ミステリー」

困った。感想が書けない。これほど感想が書きにくい小説は『白い花の舞い散る時間 (コバルト文庫)』以来だ。あのときは「感想の書きにくさ」をネタにしたのだが……まあ、今回はもうちょっと真面目に感想を書くことにしよう。
未読の人に少しヒントを与えることになるかもしれないので、ご注意ください。
白い花の舞い散る時間』は、パッケージと内容(特に中盤以降の展開)とのギャップで話題になったが、2作目ともなると、いくらタイトルがメルヘンチックでもイラストが綺麗でも、読者は身構えて読むだろうから、同じ効果は期待できまい。ではいったいどう仕掛けてくるのだろう? 実際に読み始める前に考えていたのは、だいたいそんな事だった。
いざ本を開くと、あることに気づいた。より正確にいえば、あるものがないことに。『白い花の舞い散る時間』には確かにそれがあった。それは一般文芸にはないこともあるが、ライトノベルではほぼ標準装備に近い。それがないということ、きっとそこに何らかの仕掛けがあるのだろう。そう思いつつ、扉ページをめくった。
それがないことの意味を考えながら読んでいくと、わりと簡単に仕掛けはわかった。確信を得たのは58ページ2行目だ。赤音と舞の息詰まる対決の直後だけに見落としてしまいがちだが、冷静に考えればこれはあからさまに不自然だ。さらに63ページ最終行の記述が決め手になった。よし、後は綱渡りの首尾を見届けるだけだ。その時は、この仕掛けが作品全体を貫くものだと信じて疑わなかった。
そんなわけで、99ページの舞の台詞には非常に驚いた。えっ、まだ100ページ以上残っているのに、ここで仕掛けを明かしてしまうの?
それから後はただただ翻弄されるがままになってしまった。技と仕掛けで読ませるかと思えば、真っ正面からの直球勝負。これでもかこれでもかとばかりに青春小説の王道を見せつけてくる。いや、そんな印象を抱くこと自体が作者の術中に陥っている証拠なのかもしれない。友桐夏の基調はあくまでも変化球だ。ただ、変化球投手にとっては、直球こそが「変化球」なのだ
……あまり煽りすぎると逆効果になりそうなのでこれくらいにしておこう。極楽トンボ氏も「全力でおすすめ」していることだし、屋上屋を架す必要もあるまい。
最後に大方の読者にとってはどうでもいいことを一つ。
春待ちの姫君たち』は、視点人物の認識によって人物の呼称が変わるという独特な叙述スタイルを採用している。『白い花の舞い散る時間』でも同じ手法を用いていたが、今回はより徹底的に遂行している。たとえば、ハルキが初めて蒼也に出会うシーンでは、はじめ蒼也のことを地の文で「青年」と記述しているが、途中で名前に変わる。

青年はじっとハルキの顔を見ていた。
(略)
彼の声に真剣に耳を澄ませながら、ハルキは思い出していた。中学時代に赤音の口から詳しく聞いた覚えがあった。過保護な兄。三つ年上で、顔も背格好もまったく似ていない。名前は確か――
蒼也は慎重に声をひそめた。
この呼称の切り換えは絶妙だ。
ふつう、一つの場面で人物の呼称が変わると混乱のもとになるのだが、この小説ではそんなことはない。それは、一場面一視点の原則が徹底していて全くぶれがないからだ。
呼称の切り換えといえば、以前谷川流の力業に言及したことがある。友桐夏谷川流は全く正反対といってもいいくらい違った方法をとっていながら、両者に共通の基盤――視点についての強い関心と細心の注意――があるように思われるのは興味深い。