署名、蒼井そら、コンテクスト

今、手もとには『桜色ハミングディスタンス』がある。この本のデータはAmazonには登録されていないと思われるので、かわりに2人の著者の共同サイトblackcherry bobにリンクを張っておこう。
知っている人は知っているが、知らない人は知らないし、知らない人に知らせる必要があるのかどうかはわからないけれど、まあ一応ちょっとだけ説明しておくと、『桜色ハミングディスタンス』は桜庭一樹桜坂洋の合作同人誌で、昨年11月20日に東京は秋葉原で開催された第4回「文学フリマ」で発売された。前評判も高く、当日は1人1冊の限定発売だったにもかかわらず、あっという間に完売してしまったらしい。
「らしい」と書いたのは、当日じかに秋葉原に出向いて買ったのではないからだ。東京在住の知人に購入を依頼しておいたのだが、依頼時は1人1冊制限だと知らなかった。後で知って「あ、こりゃ入手は無理かな」と思ったのだが、件の知人はきちんと依頼を果たしてくれた。1冊買ってから行列の最後尾に並び直せば、もう一度買うこともできたという話も聞くが、果たして自分の分は買えたのだろうか?
ああ、もつべきものはともだ。漢字で書けば「強敵」だ。たぶんこの日記を本人も見ているだろうから、この機会にあらためて謝意を表しておく。ありがとう。
さて、この本の表紙をめくったところに、著者2人のサインが記されている。「桜庭一樹」と「桜坂洋」は「桜」が共通しているので、それを起点にして右に「坂洋」と横書きで、下に「庭一樹」と縦書きで書かれている。では、「桜」はいったいどちらが書いたのだろう。
あいにく桜坂洋のサインは見たことがないので見比べてみることはできないが、桜庭一樹の『少女には向かない職業』のサイン本は持っているので、本棚から引っぱり出して見比べてみた。似ている。かなり似ている。だが、同一人物が書いた字だと断言はできない。
いや、一歩譲って『少女には向かない職業』に書かれた字と同じだとしても、そのことから『桜色ハミングディスタンス』の「桜」を書いたのが桜庭一樹だと推論することはできない。なぜなら、『少女には向かない職業』にサインしたのが桜坂洋ではないという保証はないからだ。もしかすると、何らかの事情により、桜坂洋桜庭一樹の代筆をしたのではないかとも考えられる。このような想定自体が非常に失礼なものだが、たぶんこの日記を両氏が見ていることはないので、失礼ついでに「何らかの事情」をもう少し想像してみよう。
たとえば、こんなのはどうか。桜庭一樹桜坂洋は姓は異なるが、実は腹違いのきょうだいだ。兄の桜坂洋はジャーナリスト崩れの強請屋に恐喝されている。それを知った弟(?)の桜庭一樹は兄を助けるために強請屋の男を殺すことを決意する。桜坂洋桜庭一樹の決意を知り、大量の『少女には向かない職業』にサインをする。これは、犯行時に桜庭一樹のアリバイがあったと主張するためである。「そんな都合のいいアリバイ工作ができるものか」という人もいるだろうが、できるのだ。なぜなら、以前から桜坂洋は知人から桜庭一樹にサインを貰ってくれるように頼まれたときに、かわりにサインをしていたからだ。今では桜庭一樹本人と全くそっくりな筆致で、しかも本人よりも速くサインすることができるようになっている……。
あ〜、無茶な設定だなぁ。
あと2つ、「会社経営を巡るトラブルで桜坂洋が社長を殺すが、実はそれは桜坂洋の小学校時代の恩師である桜庭一樹の巧みな操りによるものだった」というのと「桜坂洋桜庭一樹は一卵性双生児の姉妹で、桜坂洋は妹の桜庭一樹を自殺に見せかけて殺し、自ら妹になりすます」というストーリーを考えてあるのだが、そろそろ自分の才能が恐ろしくなってきたので、これ以上は書かない。
閑話休題。真面目にやろう。といっても、いきなり最初の行から


私は桜庭一樹である。
と書かれた『桜色ハミングディスタンス』を真っ正面から取り上げて感想文を書くのは難しい。桜坂洋の小説は『よくわかる現代魔法』しか読んでいないしなぁ。
合作小説も実名小説も別に珍しくはないが、2人の作家が交互に文章を書き、相方の書いた文章に自由に手を入れ、さらにその執筆状況をウェブで公表するという手法を用いた作品は、たぶん『桜色ハミングディスタンス』が初めてだろう。その結果、通常の小説以上にさまざまな読みの可能性に対して開かれたテキスト*1となっている。ここで「ぐーぜんせいのブンガク」とかなんとか難しそうな言葉を使って論じれば、それらしい評論が書けるかもしれない。
でも、そんなことは誰かほかの人に任せておこう。
評価とか文学史上の位置づけとかを無視して、ただ単純に感想を述べるなら、文章にダンスを踊っているかのようなリズム感があって楽しかった。最近では珍しいことに、最初から最後まで一気に読み通してしまった。
個別のシーンについて感じたことや考えたことをいちいち書くと長くなるので割愛するが、一つだけ特に印象に残った箇所を挙げておく。
11ページに実在人物の名前が3つ出てくる。順に「三島由紀夫」「蒼井そら」「チェスタトン」だ。ギャップが凄い。ここは桜庭一樹パートなので基本的には桜庭一樹が書いているのだろうと思うが、三島由紀夫チェスタトンはともかく、蒼井そらの名前を出してきたのは果たしてどちらなのだろうか? 桜坂洋が相方を揶揄する*2ために言及したのか、それとも桜庭一樹自身が自作の「もうひとつのあとがき」のつもりで書いたのか。
考えれば考えるほどに謎が深まる『桜色ハミングディスタンス』をぜひ一家に一冊備えましょう。

2005年11月20日、秋葉原市庁舎*3にて開催された第四回文学フリマで限定販売された同人誌です。販売は当日のみです。
あ、もう入手は無理か。

*1:このような文脈では「テクスト」と表記するほうが一般的だろうが、おフランス帰りみたいで鳥肌が立つので「テキスト」と表記する。

*2:どうして蒼井そらの名前を出すことが揶揄になるのかについては、桜庭一樹のある作品のネタをばらすことになるため、説明しない。こう書いただけでも勘のいい人にはわかってしまうかもしれないが。

*3:都庁舎の間違い?