忘却の彼方から

樽 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

樽 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

読み始めてから読み終えるまで一週間以上かかった。別に読みにくいという印象はなかったのだが、近年のラノベ生活でミステリ読みとしての基礎体力が衰えていたのかもしれない。
さて、およそ○年ぶり*1に再読してみたのだが、およそ2/3を読んだところでも、まだ犯人が誰かわからなかった。さすがにアリバイ崩しに焦点が絞られた頃にはわかったものの、アリバイトリックが全然わからない。つまり、内容を全く覚えていなかったということだ。
いや、厳密にいえば、私立探偵が登場することと、最後のほうで銃撃戦があることは朧気に覚えていた。しかし、私立探偵は脇役として登場するだけで事件は警察官が解決するのだろうと思っていたので、最終的に真相を暴く役どころが私立探偵に割り振られているのを知ってかなり驚いた。また、銃撃戦の記憶も不確かで、実際には銃はバンバン発射するものの銃撃戦というほどのことはなかった。
まあ、人の記憶というのはこんなものだ。「モルグ街の殺人事件」でも、「密室の中で発見された被害者は何人?」と尋ねられて、正確にその人数を解答できる人は少ないだろう。
さて、ここで「モルグ街の殺人事件」に言及したのはほかでもない、この作品が世界最初のミステリということになっているからだ。もっと遡れば新約聖書偽典とかミステリっぽい前例はいくつもあるが、現代ミステリの直接の先祖としては「モルグ街の殺人事件」が最初だと考えていいだろう。天才的な推理能力をもつ名探偵の英雄物語の元祖だ。
それに対して『樽』は、凡人型探偵の物語の元祖とされる。これも細かくみればさらに遡れそうだが、今も読まれ続けているミステリの中で、特別な推理能力を持たない刑事や探偵が試行錯誤しながらこつこつと情報収集を行い次第に犯人を追いつめていくというタイプの初期の代表作であることに間違いはない。ミステリの系譜を辿って、この類稀な文芸ジャンルの発展の歴史を把握しようと考える人にとって『樽』は必読書だ。
では、それ以外の人にとってはどうか。「ミステリも小説である以上は人間が描けていなければならない」などと主張するような人にはお薦めできない。『樽』の大部分のページは捜査活動のみに割かれていて、人間模様が描かれるのはごくわずかな部分だけだ。犯行動機や行動理由について心理的に不自然ではないように注意は払われているが、「人間を描く」といった通俗的な興味はこの小説にはほとんどない。ついでにいえば、メイドは登場するが萌えはない。
それなら、めくるめくような論理のアクロバットを期待する人にとってはどうか。残念ながら、『樽』で事件に関わる刑事、警視総監*2、弁護士、私立探偵たちは論理の城を築き上げることよりも証拠探しを重視するので、冴え渡るロジックの妙を期待しないほうがいい。むろん、捜査の方針を立て、得られた証拠を分析する過程では、論理的思考を展開しているが。
じゃあ、奸智に長けた犯人が仕掛けたアリバイトリックの面白さがあるのか。そうだ、と言いたいところだが、実はトリックそのものはあまり大したことはない。犯人の不在証明は十分ではなく、これならどうとでもるだろうと思いながら読むと予想どおりだった、という感じだ。トリックの意外性を求めても無駄だ。
ということは……『樽』は全然駄目なミステリなのか? いや、そうではない。データの収集プロセスの面白さが、この小説のほぼ全篇にみなぎっていて、全く飽きることがない。一言二言で説明できるような大仕掛けではないので、どういうふうに面白いのかは実際に読んでみないとわからないのだが、細部のちょっとしたエピソードに見られる機知はきっと一部のマニアだけの独占物ではなく、多くの人に楽しみを与えてくれることだろう。
これから『樽』を読む人は、できれば流し読みをせずに、ゆっくりと読み進めていただきたい。メモをとったり行動表を書いたりする必要はないが、捜査陣の思考と試行を丹念に辿ってもらいたい。そうすれば、『樽』をより楽しむことができるはずだ。

*1:先に高校時代に読んだと書いたので、年齢がばれるのを防ぐため伏せ字にしておく。

*2:なんと、この小説ではロンドン警視庁とパリ警視庁のふたりの警視総監自らが陣頭指揮を行っている!