経験を成立せしめる理解を超えたものについて

一昨日と昨日の続き。いや、あまり続いていないような気もするが。

水より重い物は水の底に沈み、水より軽い物は水に浮かぶ。では、鉄の塊みたいな船はどうして水に沈まずに浮いていられるのか? 確か、アルキメデスの原理がどうとかこうとかという話を聞いたことがあるが、うまく説明できない。
同じく鉄の塊みたいな乗り物に飛行機がある。いや、本当は鉄で出来ているのではないだろうと思うが、具体的にどのような素材で作られているのかは知らない。まあ、飛行機の素材がなんであれ、少なくとも空気より重いことは確かだろう。空気より重いものは空気の底に沈むはずなのに、飛行機は空に浮かぶ。さて、これはいったいなぜだろう? 船は動いている時も泊まっているときも水に浮かぶが、飛行機が空中に浮かぶのは動いているときだけだから、きっとアルキメデスの原理は関係ないのだろう。浮力? 何それ?
飛行機に乗って旅行するのに、飛行機がなぜ空を飛べるのかという知識は必要ない。ただ搭乗手続きを済ませて、所定の座席につけばいい。離陸前に非常時の脱出方法の説明を受けたことは何度もあるが、その際に飛行機が空を飛ぶメカニズムの説明は一切なかった。でも、誰も抗議をしない。みんな「そんなものだ」と思っているからだ。
しかし、考えてみればこれは非常に奇妙なことだ。「飛行機に乗って空を飛ぶ」という自分の経験が、自分の理解を超えた何ものかに基づいているのだ。どうしてそれを鵜呑みにできるのだろう?
別の領域では、このような鵜呑みを強いるシステムは好ましくないものとみなされている。たとえば、政治の世界がそうだ。国民に十分な情報を開示せずに、「依らしむべし、知らしむべからず」*1の思想で、結果だけを押し付けてくるのは非民主的であり、旧態依然とした悪しき官僚主義のあらわれであり……云々といった論説はよく見聞きするところだ。では、どうしてマスコミは政府を批判するのと同じ論調で航空会社を批判しないのだろうか?
日々、科学技術が進歩して、人々の生活はどんどん理解を超えたものに侵蝕されていく。パソコンもインターネットも各々の使用者の理解を超えたものだ。いまや、自分の経験は自分自身にとって透明なものではない。そうすると、「これは実際に私が経験したことだから確かだ」とか「少なくとも私の経験の範囲ではこう言うことができる」とか、そのような自分の経験をもとにした判断すら、かなり怪しいものになっているのではないだろうか? さらに言えば、「自分自身を見つめる」とか「自分でとことん考える」ということも、不可能とまでは言わないにせよ、相当難しい作業になっているのではないだろうか?
……と書いてはみたものの、いったい何を言おうとしているのかわからなくなったので、ここで考察を打ち切る。

*1:これは『論語』に由来する言葉だそうで、もともとは「……べし」は「……べきだ」という意味ではなく、「……できる」という意味だったらしいが、ここでは原義には拘らずにマスコミ的用法に従う。