名探偵としてのヴィクトリカ


探偵役の「犯人はコカイン常習者である」という推論の正当性は、実は「探偵小説という舞台の上で超越的な存在たる探偵役が行った推理であるから」という事実性そのものによって最終的に担保されている。ゲーデル不完全性定理に関する議論や、その探偵小説形式への反映である後期クイーン問題は、この問題の延長線上にある。ここではいわば、探偵という特権的存在による〈価値〉の密輸入が行われている。探偵の駆使する〈論理〉は決して自走し得ず、それは必ず探偵の持つ超越的なカリスマ性=密輸入された主観的価値判断に依存せざるをえない。
【略】
これまで探偵小説作家は、探偵の操る〈論理〉の空隙や飛躍や困難について、意外なほど無自覚だったように思われる。〈論理〉の巫女としてのヴィクトリカの背後に、〈灰色狼〉の能力という非合理的なものが配置されていることは、桜庭一樹がこの問題系に無自覚でないことを示しているように思える。
これは面白い。ヴィクトリカのキャラクター設定にシャーロック・ホームズとヘンリー・メリヴェル卿の影響があることはよく知られているが、この二人ではなくあえてドルリー・レーンを引きあいに出しているのが新鮮だ。
ただ、若干気になることもある。
ヴィクトリカの推理能力と彼女の出自との対照はこのキャラクターに魅力を与えるための仕掛けの一つだと考えるのが自然で、桜庭一樹がある種のミステリが抱える問題系に自覚的だということをそこから読み取るのは少し無理がある。だが、桜庭一樹がこの問題系に無自覚だということになるわけではない。そりゃ当然自覚しているだろう。というか、これまでの探偵小説作家もたいていこの問題系に気づいていたのではないだろうか。ミステリを構築する際に「どのようなプロセスで探偵に謎を解かせるか?」ということを考えないわけにはいかないだろうし、そこであれこれと思いを巡らせば自ずとこの問題系にぶち当たるはずだ。
とはいえ、探偵小説の作者が実際に創作にあたって何を考えているか、ということは余人には計り知れないことなので、断定的に述べることはできない。ここでは、探偵の持つ超越的なカリスマ性を巡る問題を強く意識していた一人の典型的な作家の存在を示すだけに留めておく。
その作家は、推理小説における謎解きを非常に重視した。そのプロセスはできる限り合理的でなければならないと考えた。そして、名探偵のカリスマ性が謎解きの合理性を追求する際の足かせになることがあるということ*1に気づいた。その作家は、名探偵に頼ることは推理作家にとって怠惰の証明であると考え、名探偵復活論を唱える別の作家の作品を取り上げて批判した。有名な名探偵論争の始まりだ。
今、「有名な」と書いたが、もしかすると「かつて有名だった」と表現するほうが正確かもしれない。「その作家」が誰を指すのか、今となっては知らない人も多いだろう。別にもったいぶってぼかすほどのこともないので書いてしまうが、その作家とは佐野洋だ。*2
……脱線した。
GOSICK」シリーズは、富士見ミステリー文庫という媒体の制約*3のもとで古典的な探偵小説の形式に基づいて書かれた意欲作だが、各所の書評や感想文を読むとミステリ面は軽視または無視される傾向がある。たまにミステリ的な要素が取り上げられても、どちらかといえば細部のあら探しに終始することが多く、このシリーズのミステリ的構造はこれまで真正面から論じられることはなかったように思われる。そのような状況で『GOSICK V』/価値と論理の交叉点を読んで、ミステリ方面からのアプローチの可能性に気づかされ、感心した。
筆者の紹介を見ると、まだ20歳そこそこの若い人のようで、今後の活躍が期待される。

*1:もうひとつ、シリーズ探偵の多用によるマンネリ化の問題点も指摘しており、どうも「名探偵=シリーズ探偵」と捉えていたふしがあるのだが、この点について論じるには準備不足なので今は控えておく。

*2:ちなみに論争の相手方は都筑道夫

*3:たとえば、オビに「L・O・V・E」と大きく書かれているところなど。