同じであるということ

特に何かの脈絡があるわけではないが、同一性言明について考えてみる。以前書いたことと重複するかもしれない。というか、前に書いた記憶がある*1のだが、いつどこで書いたのか忘れてしまった。いつものことなので、繰り返しはあまり気にしないことにする。
もしあなたが「『三つの棺』の作者はジョン・ディクスン・カーである」という主張に誠実に同意し、かつ、「ジョン・ディクスン・カーカーター・ディクスンは同じ人である」という主張にも誠実に同意するならば、あなたは「『三つの棺』の作者はカーター・ディクスンである」という主張にも同意しなければならない。さもなければ、あなたは知的誠実さを疑われることになるだろう。
もう一つの例を挙げよう。
「昭和64年は7日間しかなかった」という主張と「昭和64年と平成元年は同じ年である」という主張の両方に同意するならば、「平成元年は7日間しかなかった」という主張にも同意しなければならない。
ここで挙げた二つの例は、ともに前提はもっともらしく思われるのに結論は受け入れがたく思われるという点が共通している。だが、この表面上の類似点に騙されてはいけない。
第一の例は結論の受け入れがたさは見かけだけのものであって、受け入れることをためらってはならない。第二の例は前提(のうちの一つ)のもっともらしさは見かけだけのものであって、退けることをためらってはならない。
以下、その理由を述べる。
「『三つの棺』の作者はカーター・ディクスンである」という主張が受け入れがたいのは、通常この作品の作者名は「ジョン・ディクスン・カー」と表記され、「カーター・ディクスン」と表記されることはまずない*2からである。だが、「『三つの棺』の作者はカーター・ディクスンである」という主張において「カーター・ディクスン」という名前はある人物を指すために使用されているのであって、「カーター・ディクスン」という名前自体に言及しているのではない。
この人物を指すために通常用いられる「ジョン・ディクスン・カー」という名前のかわりに、ことさらあえて「カーター・ディクスン」という名前を用いることで、何か特別の含みを持っているという印象を受けるのは自然だ。だが、この自然な言語感覚が今は邪魔になる。ことばが何を意味するのか、そして、その言葉が意味するところに従えば真偽はどうなるのか、という観点から検討する際には、ことばの意味と含みとはいちおう切り離して考えなければならない。
「『三つの棺』の作者はカーター・ディクスンである」という主張の受け入れがたさは、ことさらあえて行った名前の選択の奇妙さに基づくものである。けれども、それは主張そのものの妥当性に関わることではなくて、主張の言い表し方の適切さに関わることであるから、この主張に同意するかどうかを迫られたとき、前提を受け入れた以上、同意せざるを得ない。
他方、「平成元年は7日間しかなかった」という主張の場合は事情が異なる。これも推論の筋道は先の例と全く同じではあるが、受け入れがたさの源泉が異なっている。この主張が受け入れがたいのは、端的にこれが誤った主張であるからである。では、なぜ、このような誤りが生じたのか。それは、この主張を結論として導くに至った二つの前提のうち「昭和64年は7日間しかなかった」という主張が誤っていたからである。
「昭和64年は7日間しかなかった」という主張は一見、特に問題がないように思われる。その年「昭和64年」と呼ばれたのは1月7日までで、翌1月8日からは「平成元年」と呼ばれるようになったからである。だが、この年の1月8日以降が「昭和64年」とは通常呼ばれないということと、この年の1月8日以降が昭和64年ではないということとは全く別のことである。「昭和64年」をある年を表示するために使用する限りにおいて、その年の始まりから終わりまでと昭和64年の始まりから終わりまでとは完全に一致する。その年は閏年ではなかったので日数は365日間だった。よって昭和64年は365日間あったということになる。
人が「昭和64年は7日間しかなかった」という主張を受け入れたくなるのは、この主張の中の「昭和64年」に年を表示する意味のほかに「昭和64年」という表現そのものに言及する含みを読み込んでいるからである。それを明示的に述べ直すならば「昭和64年のうち『昭和64年』と呼ばれた期間は7日間しかなかった」ということになるだろう。これと「昭和64年と平成元年は同じ年である」から得られる結論は「平成元年のうち『昭和64年』と呼ばれた期間は7日間しかなかった」である。この主張には何の問題もない。
以上の検討からわかることは、同一性を巡る問題を考える際には、

  • 使用と言及
  • 意味と含み

この二つの区別をきちんと行っておかなければならないということだ。
同一性そのものが言語的なものであるのかどうかについては判断を避けるが、少なくとも同一性について語るのは言語的作業である。言語的作業は言語の特質により歪められたり色づけされたりすることがあり得るということは、常に念頭におくべきだろう。

*1:特にカーの例文はそのままの形で書いたような気がする。

*2:逆に、「カーター・ディクスン」名義で発表された作品、たとえば「妖魔の森の家」などの作者名はしばしば「ジョン・ディクスン・カー」と表記される。この非対称性は、「ジョン・ディクスン・カー」がジョン・ディクスン・カーの本名であり、「カーター・ディクスン」はそうではない、ということに求められるかもしれない。しかし、このような説明に対しては「コーネル・ウールリッチ」と「ウィリアム・アイリッシュ」の関係はどうなのか、という疑問を抱く人もいるだろう。この問題を包括的整合的に説明するのはかなり厄介な作業になるだろう。