数・論理・認識の限界


人間以外の知的生命がいたとして、人間とは違って細かい部分まできちんと認識し、2つのリンゴがあった場合にそれらを全く別の物として認識するとしたら、1+1という計算はできるでしょうか。
【略】
自然数という概念も、たまたま人間の認識力の限界で、複数の別のものを同じにとらえてしまうことから発生したものなのかもしれません。自然数は、人間が自然を理解する為のデジタル化とも考えられます。

「神には『同じモノ』という概念がない。いや、それどころか『モノ』という概念すらないだろう。神の眼にはあらゆるすべてが固有の、かけがえのない根元的要素まで解析されてしまうからだ。認識能力が有限の人間は蜜柑を見て『これは蜜柑だ』というレベルで判断を止めてしまう。だからよく似た物体を見れば『これも蜜柑だ』で終わってしまい、そして『蜜柑が二つある』という認識につながる。無限の認識能力がある神は、究極のレベルまで一瞬にして認識する。ひとつとして『同じモノ』など存在しない。根元的かつパターン化不可能な固有の存在があるだけだ。そこに抽象的モノ概念は存在しない」
【略】
「それではまるで、論理学が幻だと言っているようじゃないか。私達の認識能力の不足から論理が生じるのだとしたら、それはまるで幻のようなものじゃないか」