富山と東京の距離

富山と東京の距離は、富山人が東京に行く場合と、東京人が富山に行く場合では異なっているのではないか、という話。
この話は別に富山に限ったことではなく、高山でも篠山でも和歌山でも岡山でも福山でも松山でも構わない。東日本だと……郡山は東京に近すぎるので少し事情が異なるが、別に地名に「山」がつく必要もないので、「東京でちょっとした用事を果たそうとすれば一泊する必要がある程度に離れた地方都市」を適当にイメージしていただきたい。今はそれを富山で代表させる。また、「東京」というのは厳密に行政区域としての東京都を指すのではない。川崎も浦安も東京に含めていいし、逆に八丈島は東京から除くことにしよう。
富山と東京の間の距離というのは物理的に定まっているので、「富山人が東京に行く場合と、東京人が富山に行く場合では異なっている」などということはない。これは比喩的な言い回しだと解されたい。距離についての意識または意識下の概念枠のようなものについての話だ。以下、これを「距離感」と呼ぶ。
たとえば、東京の映画館ただ1館でしか上映されていない映画があるとしよう。その映画を見たいと思っている人が富山に住んでいて、資金と時間に余裕があり十分に意欲が高ければ、彼もしくは彼女はたかだか2時間足らずの映画を見るためだけに東京に行くことになるだろう。
逆に、同じ映画が富山の1館のみで上映されていないとして、その映画を見たいと思っている人が東京に住んでいて、資金と時間に余裕があり十分に意欲が高ければ、やはり富山まで足を運ぶことになる。外形的にはこの関係は対称的だ。だが、実は「わざわざ足を運んで映画を見に行く」という行動を実現するためのハードルは富山人の場合と東京人の場合とでは違っているのではないか。
これが「富山人が東京に行く場合と、東京人が富山に行く場合では異なっている」というフレーズで言いたかったことだ。
先に述べたとおり、富山と東京の間の物理的な距離は、どちらからどちらへ移動する場合にも変わりはない。よって、行動を起こすのに必要な資金と時間の余裕は、富山人の場合でも東京人の場合でも同じことだ。違っているのは、行動を起こすのに必要な「十分な意欲」の程度だ。富山人にとっての東京に比べると、東京人にとっての富山は、距離感のレベルで、より隔たっているため、より意欲が高くなければ行動に移すことはない。
これは一つの仮説に過ぎず、十分に検証されたものではない。そもそも、どのようにして検証すればいいのかすらよくわからない。客層がほぼ同じだと思われる映画を2本用意してそれぞれを富山と東京で単館上映し、富山から東京へ見に行った人の数と東京から富山へ見に行った数をそれぞれの都市圏の住民数で割ればいちおうの目安になるとは思うが、そんな実験は現実にはまず不可能だ。アンケート調査で代えることはできるだろうか?
ただ、検証はできなくても実感はできる。富山人、高山人、篠山人、和歌山人、岡山人、福山人または松山人が東京に行けば、いやでもそれがよくわかる。
では、逆に東京人が富山、高山、篠山、和歌山、岡山、福山または松山に行ったときにも、同じ実感が得られるだろうか?
得られる人もいるだろうし、得られない人もいるだろう。だが、感知できる人の割合はかなり少ないのではないか。
距離感の非対称性とともに、ここにもう一つの非対称性を見出すことができる。それは、距離感の非対称感の非対称性だ。
もろちん、これも仮説に過ぎず、検証はされていない。また、原理上実感することは不可能だ。言うまでもないことだが。