家城発24時10分

無人の列車がとことこと線路を走り、帰省中の21歳の女子大生が窓から見て驚いた、というような浮世離れしたのどかな話。
名松線張と阪を結ぶ目的で建設された路線だが、建設途中で頓挫して途中の伊勢奥津が終点となっている。営業キロ43.5キロ、換算キロ47.9キロ全線単線非電化のローカル線だ。
手許の時刻表によれば、伊勢奥津から松阪へ向かう上り列車は一日8本、うち3本は紀勢本線に乗り入れる。下りは紀勢本線から入ってくる列車はないが、別に毎日どんどん列車が流出しているということではなく、単にスジが繋がっていないだけのことだろう。松阪発伊勢奥津行きは一日7本で上下の本数が合わないが、もう1本家城止めの下り列車がある。上の記事で主役を果たしているのはこの区間列車だ。松阪2119発下り419C。これが伊勢奥津に回送されて、おそらく翌日の一番列車となる。
「おそらく」と書いたのは、もしかしたら二番列車かもしれないからだ。下り伊勢奥津行き最終列車417Cは2008に伊勢奥津に到着し、その後折り返し上り列車はないため、一晩停泊する。ここに419Cとしての運用を終えて回送されてきた車輌が翌日の上り一番、二番列車――列車番号でいえば400Cと402C*1――となるのだが、どちらがどちらになるのかは判断できない。小売業なら先入れ先出しの原則があるが、単線鉄道だと先に入れた列車は奥に入ってしまい、後から入れた列車が邪魔になって折り返し運転ができない。列車の入れ換えをするには交換設備が必要だが、さて伊勢奥津にそんなものがあっただろうか。今から15年ほど前に訪れたときには1面1線の単純な構造の駅だったような気がする。たぶん列車の入れ換えなどという面倒なことはせず、後から回送で入った列車を先に出し、先に入った列車を二番列車に仕立てるだろう。「おそらく」というのはそのような推測に基づく。
終端駅の構造は時刻表からはわからないが、中間駅の列車交換設備の有無はある程度わかる。名松線のダイヤは非常に簡単で、松阪と伊勢奥津を同時刻または1、2分の差で発車した上りと下り双方の列車が中間の家城で出会い、そこで列車交換を行ってそれぞれの終点へと向かう。ただそれだけだ。つまり、列車交換設備は家城にしかないということになる。
いま、家城のことを名松線の中間の駅だと書いたが、この駅は松阪から25.8営業キロ、伊勢奥津から17.7営業キロの地点に位置する。中間地点にいちばん近い駅はここからふたつ松阪寄りの伊勢川口だ。これも「おそらく」という修飾語句つきの話になるが、家城から奥は山あいの急勾配か急カーブのせいで列車のスピードが上がらないのだろう。
列車のスピードの話のついでに表定速度を計算しておこう。列車交換のない上り一番列車は伊勢奥津600発、松阪710着なので、表定時速37.3キロだ。ここでの「上り」は鉄道用語で、別に坂を上るという意味ではない。伊勢奥津は山の中、松阪は海の近くだから、上り列車は概ね坂を下る。幹線から山に分け入るローカル線は概ね「上り」が下りで「下り」が上りだ。昔の野上電鉄は紀勢本線海南駅と接する日方*2から山を上って終点のその名も「登山口」方面が「上り」だったそうだ*3が、これは例外だ。それに野上電鉄はもはや存在しない。
閑話休題
表定時速40キロを切るというのは大変のんびりした話で、これでは自動車と競争にならない。とうの昔に廃線になっていてもおかしくはない路線だが、並行する道路が未整備だということで国鉄末期の赤字ローカル線廃止の嵐を切り抜けたのだと聞いたことがある。間違っていたらごめんなさい。国鉄分割民営化からそろそろ20年、さすがに道路も整備されたことだろう。バブル期の「鉄道ルネサンス」の夢も潰え、各地でひっそりと消えてゆく鉄道が多い中、名松線はいつまで残るのか。

*1:402Cは土曜休日には列車番号が3402Cとなる。名松線内は平日も休日も同じダイヤだが、乗り入れ先の紀勢本線のダイヤに異同があるため列車番号を変えているのだろう。

*2:海南駅のホームのそばに「国鉄連絡口」という名のホームがあった。これは日方駅構内の別ホームという扱いだが、ちゃんと駅名標も立っていた。

*3:宮脇俊三の本にそう書いてあった。タイトルは忘れた。