県立中学校と広軌電車

あー、何と申しましょうか。
ストーリーやキャラクターよりも舞台設定の突飛さが目につく小説でありました。
たとえば……


谷谷駅について述べる。
足りすぎと足りなさすぎのどちらが良いかという議論はさておき、この駅の施設が不相応な施設を持っているという小夜子の指摘は的を得ている。この駅は無駄に馬鹿でかい。十両編成とかの長い列車が入ってくるわけでも無いのに四百メートルもの長さのホームを持っているし、ホームの数だって一番から八番までと、たくさんある。ホームはあるけど、電車はこない。二つの電車が同時に存在していればかなりいいほうだ。おかげで日本で一番発着間隔の長い駅なんていう名前で鉄道好きの人たちに記憶されていたりもする。
ぶっちゃけた話、谷谷駅にこれだけのホームがあるのは、谷谷市を中心に活動していた国会議員の功罪である。すごいホームがあった方がすごい駅っぽい。そしてすごい駅であった方がすごい都市っぽい。その意見はまあわからないでもないのだが、問題はどこから資金を出すかである。民営化以前の国鉄では往々としてそのような無理が通ったという話なのだが、民営化後の今となってはなかなか辛いものである。設備豊富で鈍行から特急まで停めることができるホームではあるが、実際に降りる人はあまりいないので、停車していく列車の数もあまり多くない。
さすがにこれはないでしょう。いくら有力国会議員でも自らの権力を誇示するために駅のホームの数を増やすはずがない。そんなことをしても票に結びつかないのだから。一歩譲ってそんな馬鹿な話があったとしても、民営化後までそれが残っているはずがない。
いや、『焦げた蜜柑みたいな茜色』はあくまでもフィクションであり、谷谷駅も架空の駅なのだから、そこに現実世界の尺度をそのまま持ち込むわけにはいかないのではないか?
一般論としては確かにその通り。ただ、この作品についていえば、現実世界の尺度とは異なるどのような尺度を持ち込めばいいのかが皆目見当がつかないのが難点だ。

県立外崎中学校まで毎日通うのは辛い。実に辛い。裕香は朝六時に起きて準備をし、早朝の中石村の道路を自転車で走る。そして列車で一時間弱ほど揺られて谷谷市について、さらにそれからバスに揺られて十分ほど(もしくは徒歩で二十分ほど)行けばようやく戸崎中学だ。
賞味二時間弱、往復でいくと四時間の道のりを飽きもせずに毎日毎日。人間努力とか精進が大切だというけれど、これだけの時間をずっと通学に費やしていると、中学を卒業する頃には悟りでも開けるんじゃないかと裕香は思う。
こんな二時間をかけて通学しなきゃ行けない理由は、二人の住んでいる中石村がすごく田舎だからだ。いや正確には既に村ではない。昔は村だったけれど、今はもう村ではない。憎むべきは市町村合併である。昔の中石村には、クソ田舎といえども中石村立中学校というものがあった。場所は裕香の家から五キロくらい、そして小学校と併設だ。小学校は全校生徒四人だったというと、生粋の谷谷人達ネイティブヤツガヤン(中学の友達の多くはそれだ)は一様に驚いた顔を見せるのだが。まあとにかく小中両方ともあったのである。
本当ならば裕香たちはそこに通う予定だったのだが、市町村合併とそれによる学校の統廃合で、村立中石小学校および中学校はあえなく消失してしまった。確かに維持費やら先生やらにかかる教育費を考えると、一括にしてしまった方が効率がいいのかもしれないけれど、自転車の旅一時間から、自転車+電車+バスで一日のうちの六分の一も消耗することになることになった元中石村の生徒たちとしてみればいいといえることはあまりない。先生が多いとか友達が多いとかは確かに利点ではあるけれど、天秤の傾く方向は微妙だ。
これは非常に不思議な記述だ。谷谷市には市立中学校はないのだろうか?
近年、各地で県立中学校が増えてきてはいるものの、それは県立高校との中高一貫教育のためであって、基本的には公立中学校の設置母体が市町村であることに変わりはない。
これも、何でこんな設定にしているのか見当がつかない例だ。
同様の例はほかにもいくつかあるのだが、いちいち取り上げるのも面倒なのでこれくらいにしておく。見出しに掲げた「広軌電車」については、興味のある人は各自調べられたい。
まとめ。
不思議な小説でした。