「キャラ萌え」にみる「キャラ」と「作品」の関係

「キャラ萌え」は作品の一要素ではないの続き。まだきちんと煮詰まった考えではないのだが、筋道立てて整理する前に忘れてしまう恐れがあるので、まずは思いつきを書き記しておくことにした。
Something Orange - 「キャラ」を見ずに「作品」を語るひとたち。*1では、「キャラ」が「作品」の一要素であるという主張を明確に打ち出している。この主張そのものには大きな問題はない、と前回の記事を書いたとき*2には考えていた。だが、「キャラ」が「作品」の一要素であるということは、海燕氏がいうほど自明なことではないのではないか。
「キャラ萌え」というのは、読んで字の如く「キャラ」に「萌え」るということだ。「萌え」については諸説分かれるが、少なくとも萌え対象について著しい関心を抱くという態度であることには異存がない。「属性萌え」は何らかの「属性」について他の要素とは違った特別な関心を寄せることだし、「シチュ萌え」なら「シチュエーション」が主要な関心の的となる。「キャラ萌え」の場合は、もちろん萌え対象は「キャラ」だ。
仮に「キャラ」にのみ関心が向けられて、「作品」を構成する「キャラ以外の要素」を全く無視するとしよう。その場合は「作品」をトータルで見ることにはならないだろうが、だからといって「作品」を全く見ていないわけではない。なぜなら、「キャラ」は「作品」の一要素であり、「キャラ」を見るということは「作品」の一要素を見るということなのだから。
しかし、「キャラ萌え」に走る人々の中には、あたかも「作品」を全く見ていないかのような振る舞いをみせる人が少なからず存在する……と「キャラ萌え」に違和感をおぼえる人の目には映る。だが、これはおかしなことだ。「キャラ」と「作品」は完全に切り離せるものではないから、「作品」を見ずに「キャラ」だけ見るというのは、そもそも不可能なのだから。
これはどういうことか?
最初にも断ったように、以下は単なる思いつきであり、十分に根拠づけられた主張ではない*3が、次のように考えてみた。

  1. 「キャラ」と「作品」が完全に切り離せるものではない、という基本認識は譲れない。これは、「キャラ萌え」という受け手側の態度によって、または「反・キャラ萌え」という態度によってどうにかなるものではない。
  2. しかし、「キャラ」と「作品」が不可分であるということは、「キャラ」が「作品」の一要素だということは直ちに帰結するわけではない。これは「キャラ萌え」の人々には通用しないかもしれない。
  3. もしかすると、「キャラ萌え」の人々にとっては、「キャラ」の一要素が「作品」なのではないか。「キャラ」がもつさまざまな属性の中に「かくかくしかじかのストーリーをもつ作品に現れる」という一項が他の諸属性と同格のものとして組み込まれている、ということではないか。
  4. つまり、「キャラ萌え」においては、「キャラ」と「作品」の存在論的身分が逆転しているのであり、「キャラ」が実体として立ち現れているのだ。これは、たとえば原作とは全くかけ離れた世界設定のもとで「キャラ」が活躍するような二次創作の場合に顕著だが、一次創作の場合でも同一「キャラ」が登場する複数の「作品」があれば同じことが言える。

結局、前回の記事の註釈で少し触れた「キャラの貫作品同一性」の問題に行き着いてしまった。「作品-キャラ」の受け手の構えのあり方の問題に絞って、できれば存在論の問題は回避したかったのだけど……。

*1:リンク先には見出しはないが、便宜上はてなブックマーク - Something Orange - 「キャラ」を見ずに「作品」を語るひとたち。の見出しを借りることにした。

*2:今でもできれば支持したい主張だとは思う。

*3:こう書くことで責任回避を意図しているように受け止められるおそれがあるのは承知しているが、そのような意図で断り書きを入れているのではない。この文章を読んだ人がこの思いつきを擁護し正当化してくれることを、または決して擁護できない憶見であることを明らかにしてくれることを期待し、根拠のなさを強調しているのだ。