効率的に生きるのはつまらない


 しかし、純粋に作品そのもの出来をかんがえてみれば特に見るべきものはないことも事実。だから効率をかんがえるなら、一定以下の品質の作品、特に好きではない作品はどんどん切っていくのが能率的だと思う。
 こういう態度は昔のオタクの価値観でいえば「薄い」とか「ぬるい」という評価に落ち着きかねない。
 しかし、ひとつのジャンルを「濃く」あるいは「深く」きわめようとするなら、効率を犠牲にせざるをえない。
 ようするにたいしておもしろくもない作品まで見る必要があるのである。これはもう、純粋な趣味というよりもお勉強に近いものがある。
 単純におもしろいものが見たいだけなら、作品選定の水準は高く設定したほうがいいだろう。そのかわりジャンルの幅を広げてみる。
 現在、オタク的と評される作品はじつに多岐にわたっているので、それぞれのジャンルの上位3%くらいだけたのしむようにすればいい。
 濃くも深くもない、しかし広く豊かなつまみ食いオタクライフである。
確かに能率とか効率とかを重視するなら、上澄みをすくうような楽しみ方がいちばんかもしれない。
でも、それって、本当に「広く豊か」だろうか?
x軸とy軸が逆転しただけで、「濃く深く」きわめるのと大して変わらないんじゃないだろうか? あんまり豊かじゃないような気がする。
もちろん、何が「豊か」なのかということに決まった基準があるわけじゃないし、人によっても考え方は違うだろう。傑作だけに絞って鑑賞するような生活が「豊か」だと思うのが悪いわけじゃない。ただ、実際問題として、傑作とそうでない作品とをどうやって見分けるんだろう? それが気になる。
自分で鉱脈を掘るのは非効率だから他人に頼ることになるのだろう。でも、信頼できる他人を見つけるのに精力を注ぐのもエネルギーの無駄遣いだ。だったら、テレビCMなんかで大々的に宣伝されている映画とか、書店のペストセラーの平台にずらりと並べられている本とか、そんなのだけ相手にしているのがいちばん楽だ。
いや、別に海燕氏がそんな生活を薦めていると思っているわけじゃない。今言ったような選択だと、『時をかける少女』ではなく『ゲド戦記』をみることになるだろう。それは上の引用箇所の前で海燕氏が言っているのと正反対だ。
ということは……。
ただ何となく情報に流されて面白そうなものを与えられるがままに受容するという生活に甘んじるのではなくて真の傑作を希求し何が傑作なのかを知るために各方面に触手を伸ばし情報収集に励みある時は駄作を掴まされて凹まされまたある時には自らの感性に合わぬ名作に目を白黒させてそれでもくじけずめげず傑作三昧の生活を夢見つつそのためにあるジャンルにおける傑作出現の条件や構造の会得を志しまた未知の作品に触れたときに良作か否かを判別できる嗅覚を身につけるために時には他ジャンルの傑作を無視してでも一つのジャンルに耽溺して博物学的探究も行ってみて失敗作に出くわしてもそのダメっぷりを逆に楽しむようなオタク生活を送り稀に世間的には注目されていない傑作があることに気づいて驚喜しかつ狂喜しかつ狂喜に駆られつつ他人にその作品を布教して廻り逆に自分が見落としていたところに傑作が埋もれていたことを同好の士から知らされて悔し涙を流しつつも感動してよし次こそは掃き溜めから鶴を見つけてやるぞと堅く心に誓ってさらに研鑽に励むというそもそもの理想であった上位3パーセントの傑作に絞って鑑賞するという目標からみれば一見効率的ではない生活を経験しておくということも案外馬鹿にできない豊かな生き方なのではないか、と考えてみた次第であります。