作者の意図と批評

あまり文芸批評について詳しいことは知らない*1なので偉そうなことは言えないが、リンク先の文章はかなり鋭いところを衝いているように思う。
中でも興味深いのは、次の箇所だ。

ただし作品というのは、作者の意図した風に読まれることを想定して書かれています。だから、作者の意図通りに読んだ方が作品を楽しめる可能性が高い、とりあえず手堅いという確率の偏りはあると思います。たとえば文字コードEUCで書かれたファイルをむりやりJISコードで開いても意味をなさない可能性が高く、素直にEUCコードで開いた方がいい場合が多いです。

ある作品を読解するときに、その作品の作者の意図をどう扱うのか? この問題に対して、両極端の2つの考え方がある*2

  1. 作品とは作者の意図が外部に流出して形をとったものであり、いわば作者の似姿、影のようなものである。従って、作者の意図は作品を絶対的に規定しているのであり、作者の意図に沿った読解こそが正しい読みである。
  2. 作者と作品の間には物理的因果関係はあっても、必然的連関はなく、両者は独立の存在者である。従って、作品を読解するにはただその作品に向き合えばいいのであり、作者の意図などというものは作品そのものへの視線を曇らせるノイズにすぎない。

どちらも実際には受け入れがたい極論だが、両方とも退けるとすれば、いったいどのように作者の意図を位置づければいいのか? VNI魔王14歳*3は「確率」という言葉で作者の意図と作品との関係を言い表した。これはいいアイディアだ。作者は特権的な絶対者ではない。しかし、作者の意図に沿った読み方をするほうが楽しめる確率が高い。これは天気予報にたとえることができるだろう。天気予報は絶対ではない。しかし、天気予報に従ったほうが快適に過ごせる確率が高い。
ところで、魔王14歳氏自身の文字コードのたとえは、前段の主張とは切り離して別の読み方をすることができる。文字コードは、それを用いて文字表現を行う人とは独立に、その表現活動に先立って存在する。表現者はただ複数の文字コードから一つを選択して使用するだけだ。これは、通常の文芸作品においては作者が言葉を作ることは稀で、既にある語彙の中から適切なものを選択して使用するのだということになぞらえることができるだろう。
作者も、そして読者も既存の枠組みを無視することはできないし、それどころか、ほんの少しでも逸脱しようとすれば多大な努力が必要となる。枠組みそのものを一から作り上げるなどということは、もちろん個人にはなし得る業ではない*4。よって、ある作品を読解するときにもっとも重要なのは、その作品が填められている枠組み*5だとも考えられる。このような読みは、魔王14歳氏の意図に沿ったものではないかもしれない*6が、一考に値するものだと思われる。

*1:文学部唯野教授』を読んだ程度。

*2:話をわかりやすくするためにかなり単純化している。実際にこの通りの主張をしている人がいるかどうかは知らない。

*3:はてなIDとは別にハンドルがある人に言及する場合はなるべくハンドルのほうで呼ぶことにしているのだが、「魔王」か「魔王14歳」か、あるいは「VNI魔王14歳」かでかなり迷った。迷った末に、とりあえず初回はフルネーム(?)で記載し、2回目以降は「VNI」を省略することにした。

*4:文字コード作成の歴史は知らないので、もし個人の力だけで作り上げられたコードがあるのなら、アナロジーは不完全なものになる。これはやむを得ない。

*5:語彙、文法などの言語的枠組みのほか、ジャンルとか商業的位置づけとか、さまざまなレベルの枠組みがある。それらはすべて個々の作者からも読者からも独立に存在しているという点で共通している。

*6:少なくとも上で引用した箇所の読みとしては誤りに違いない。