現在の「いる」と無時間の「いる」
このパズル*1は、かなり昔に松田道弘の本で読んだ記憶がある。『トリック物語』か『トリックのある部屋』か、どちらかだったはず*2だ。ただし、「答えがふたつある」というようなプレゼンテーションはしていなかったように思う。
このパズル*3の正解はもちろん「息子」だが、答えがふたつあるというのなら別解を探してみようと思い、あれこれ考えているうちに思いついたのは「甥」だった。「私には兄弟も姉妹もいません」という発言を「私には父も母もいません」という場合の「いません」と同じ意味にとれば、甥がいてもおかしくはないだろうと思ったのだ。その考えは、リンク先の筆者が意図した趣向*4とは全然違っていたが、それはそれとして、同じ「私には兄弟も姉妹もいません」というフレーズが二通りに解釈できるということは、ちょっとした発見ではないかと思った。でも、はてなブックマークのコメントを見て、すでに同じようなことを考えた人がいることを知り、少しがっかりした。真にユニークな発想というものはそう簡単に降って沸くものではないのだ。
ところで、二つ前の文中の「すでに同じようなことを考えた人がいる」は、現在時制の「いる」だろうか、それとも無時制の「いる」だろうか? 自分で書いておいておきながら、どちらに解するほうが適切なのかがわからない。これは、文章の筆者が当該文章にとって特権的な立場にいるわけではないということを示す例として使えるかもしれない。
- 参考
- 「存在と言語――存在文の意味論」【PDF形式】
追記(2007/05/11)
所有の「の」を強引に同格の「の」と解釈するという力業。これは気がつきませんでした。