「制度言語」

ライトノベルの文体についての雑感を書いたときにはあまり気にしていなかったのだが、その後、GOD AND GOLEM, Inc. -annex A- - ポスト〈セカイ系〉としての『ギートステイト』と、ライトノベル作家の文体についての疑問(改訂版)に出てきた「制度言語」という言葉が気になった。よく考えてみれば、この言葉を今まで一度も見聞きした記憶がない。
この言葉はGOD AND GOLEM, Inc. -annex A- - ラノベ文体評について納得の註釈でも用いられているのだが、どちらの箇所でも言葉自体についての説明はない。ということは、筆者は「制度言語」という言葉が周知のものであると信じているか、または説明の必要もないほど自明なものだと思っているのか、あるいはその両方なのだろう。
まあ、字面から意味が掴めないことはないのだが、予断は禁物だ。たとえば「防衛医療」という言葉を見て「病気になってから治療するのではなくて、病気になる前に防衛する医療のことなんだな、きっと」と思いこんでしまうことだってあるのだから、調べてみるに越したことはない。
で、Google様にお伺いを立ててみたのだが、「制度」と「言語」が別に出る例も拾ってしまっているので全然役に立たない。もう一度、今度は"制度言語"を二重引用符で括って検索してみたが、それでもやはり「制度,言語」とか「制度・言語」が引っかかる。明らかに一語の「制度言語」を用いている例はごくわずかしかなかった。
そのうちの2例では、村上春樹が用いた言葉として「制度言語」を紹介している。

象徴的なのが村上のいう「制度言語」という分析。「制度言語」とは、J-POPの歌詞や朝日・読売新聞などに見られる定型的言語(要は決まったスタイルシートみたいなもの)。

朝日新聞やその投書欄を読んでいると、「制度言語」が頂点に達している感がする。紋切り型で、もたれ合いがひどいということ。

 スガカシオというのは変な名前であるが、日本人である。ここにあるのは演歌的メンタリティーへの嫌悪、日本の歌謡曲の歌詞への生理的な反発であり、それと共通する、連続テレビ・ドラマの台詞、あるいは朝日新聞を代表とする大新聞における「制度言語」のやりきれなさである。マスではあるがローカルであるという不思議なねじれた世界。村上氏が文学的出発点で示したデタッチメントへの志向の根底には、間違いなくこういった「制度言語」への反発がある。氏にはそれまでの文壇小説もまた「制度言語」によって書かれているように見えたのである。要するに身内の中だけに通じる言葉、自立していない言語によって書かれた文学であり、自分はそれとは違った場所から発信しなければ意味がないと思ったいうことである。

なるほど、ようやくこの言葉の素顔が見えてきた。
調べる前には、何らかの社会制度のもとで慣習的に用いられる語彙や言い回しのパターンを表す価値中立的な言葉だと思っていたのだが、どうやらかなりネガティヴな含みをもつ言葉のようだ。ということは、このあたりで書かれていることの読み方も変わってくる。
これは実にいい経験だった。