野党の政府批判とアニメファンのアニメ批判の違い

いばら
あと、批判はどっかの野党がやっているように至極簡単ですが、具体的な解決案はあるんですか?アニメ化している以上原作に人気があったわけですし、あれをアニメ化しようと思ったら、うまくやってるほうだと思いますよ。
Shsgs
ところで、批判と野党の喩えは興味深く思いました。政治というものは、国政を停滞させないために具体的な施策を迅速に施していくことが強いられているという側面があるので、代替案がなければ100%満足のいかないものであっても採用せざるを得ないことがあります。他方、野党の役割は国会という場で政権与党を批判すること自体にも意義を見出しえます。国民に開かれた場で議論を交わすことによって、多数者の意見に偏りがちな権力の行使を、少数者の意見も取り入れて折衝することが憲法の所期するところであるためです(詳しくは日本国憲法について書かれている文献等をご覧くださいませ)。
翻って、animationには制作段階で批評サイド(=視聴者)の折衝を図る必要が(上記のような意味においては)ありません。観る側は完成された作品を事後的・一方的に受け取ることとなるからです。わたくしにはanimationを制作する能力はおそらくないでしょう(そもそも作ったこともありません)。当然、その能力は京都アニメーションの面々よりも劣っていることと思います。しかし、だからといって観賞する側は具体案をださなければならない立場にいるとはいえないのではないでしょうか。仮に具体案の提示なしに批判がなされてはいけないとなれば、およそ創作者でもない人間の批評というものはそもそも存在し得ないことになってしまいますし(評論家という職業が成り立たなくなってしまいます)、「つまらなかった」の言葉が「じゃあお前がつくってみろよ」の一言で封じられてしまうことになってしまいます。その場合には、およそ批評と言うものが制作サイドと同等あるいはそれ以上の力量を有する人間(そのほとんどはanimation制作を生業とする人間となるでしょう)に限定する形でしかできなくなってしまいます。いばら様のおっしゃる理屈は、視聴者の大半に対して、「文句があるならもっと良い案を出せ」と予め反論を封じておきつつ、作品への肯定を迫るという態度を容認する結果を招いてしまいます。そうすると、”作品評価”というもの自体が成り立たなくなってしまって極めて不合理なのではないでしょうか。わたくしは、そうではなくて、批判されることを封じるのではなく、批判に耐えた作品への賞賛をもって制作者に報いるべきだと思います(この場合の賞賛とは文字通りの賞賛の他に、同じく当該作品を肯定する視聴者の”説明”も含まれるでしょう)。その前提としては、やはりなぜ悪いのか・なぜ良いのかということをきちんと説明していることが必須であると考えます。ですから、必ずしも比喩として適切ではなかったかのように思われます。
いばら
あと、野党を例に挙げたのは、批判に重点を置きると、現実的に考えて重要でない部分に執着しすぎる危険性があるという意味も含めて言っただけです。