遁走曲奥義、またはBACHの名による4人のメイド

それはひどく暑い夜のことだった。
猛暑に耐えつつ1冊の小説を読み終え、「さてぼちぼちネットサーフィン(死語)でもするか」と思ってブラウザを立ち上げてアンテナに登録してあるサイトをがしがしと開いていったのだが、そこで驚くべき記事を見かけた。

驚愕ポイントは3つ*1

驚愕ポイント1
『遁走曲奥義』というマイナーな訳題に言及されていたこと
驚愕ポイント2
BACHの名によるフーガがアップされていたこと
驚愕ポイント3
たまたま直前に小説を読んでいるときに『フーガの技法』の最後のフーガを連想していたこと

3は全く個人的なことだが、1と2はもうちょっと一般的だと思われるので、以下少し説明しよう。
まず、驚愕ポイント1について。
フーガの技法』はバッハの代表作のひとつだ。ミステリに喩えるなら天城一の『密室犯罪学教程』のような特殊作品だけに、「どこかで聴いたクラシック」の類のアルバムにはまず収録されることはないが、ある種の音楽ファンの間では広く知られている。詳しいことはフーガの技法 - Wikipediaを参照されたい。
だが、ウィキペディアの記事を見ても『遁走曲奥義』などという訳題は出てこない。たぶんこの訳題で出ているCDもないだろう。現在では『フーガの技法』という訳題が定着しているためだ。Googleで検索してみても、ここここのわずか2件しかヒットしなかった*2くらいなので、『フーガの技法』がかつて『遁走曲奥義』と呼ばれたこともあるということは、たぶんある種の音楽ファンの間でもあまり知られていないだろう。そこで、「よくそんなマニアックなこと知ってるなぁ」と驚いたわけだ。
次に驚愕ポイント2。
これはぐだぐだと説明することはないだろう。プロの小説家が、原稿が停滞中だからといって、BACHの名によるフーガを実際に作ってしまったということに驚いた。ちゃんとフーガに聞こえるよ!
作曲のきっかけは、どマイナーなBWV898*3だそうだが、数あるBACHの名によるフーガの中で最もよく知られているのは『フーガの技法』の最後の未完の3重ないし4重フーガ*4だ。手許にあるグールドのボックスCDセット*5では『フーガの技法』はオルガンで演奏したコントラプンクトゥス第1〜9番しか収録されていないので、てっきりグールドは未完のフーガを録音していないのだと思っていたのだが、これを見ると、未完のフーガはピアノで演奏しているようだ。できればこっちに挑戦して貰いたかった……などと無茶な注文をつけたところで、次は驚愕ポイント3。
以下、完全に私的な話になるので、「続きを読む記法」を用いる。
Nothing but Electric Empty Text - livedoor Blog(ブログ)を見に行く直前に読んでいた小説というのは、これだ。

メイドなります!―さよなら (美少女文庫)

メイドなります!―さよなら (美少女文庫)

『メイドなります!』シリーズは、先月出た『もっとメイドなります! (美少女文庫)』で5冊めになる。たぶん美少女文庫で5巻も続いているシリーズはほかにないだろう*6。第1作からずっと読んでいるのだが、昨年末から今年にかけていろいろあって、第1期最終巻の『さよなら』だけ未読のままになっていたところ、第二期が始まったので、この機会に積ん読状態を解消すべく、本棚から引っぱり出してきた*7わけだ。
このシリーズは巻を重ねるごとにヒロインが増えていき、『さよなら』の段階では4人になっている。4人もの美(少)女それぞれに見せ場*8を用意しないといけないし、それぞれのキャラクター単独の見せ場を順番に繋いでいくだけでは平板になるから複数キャラの絡みも必要になるので、ストーリーづくりが大変だったろうな、と思いながら読んでいるうちに、バッハの最後のフーガを思い出した。
一般に、複数の主題をもつフーガは、まず第1主題を提示して展開し、次に第2主題を提示して第1主題と絡ませたり、パートを入れ換えたりして、一段落ついたところで第3主題を提示して……というふうに進めていくのだが、主題が4つになると、4つのパートが全部埋まってしまうために、第4主題提示後は機械的な順列組み合わせに陥り、創造性を発揮する余地が極めて乏しくなる。そこで、4重フーガは滅多に作曲されることがない。確か、バッハも3重フーガはいくつか書いているが、完成された4重フーガはひとつもなかったはずだ。『フーガの技法』の最後の未完のフーガで、バッハはいったいどういう手段で4重フーガの制約を切り抜けるつもりだったのだろう?
……と、そんなことを考えながら『さよなら』を読み進めていくと、第5章で4つの主題が等しく個性を主張しながら鳴り響き、かつハーモニーを保つという、対位法の極致を見て感心したのであった。かつてバッハが成し遂げることができなかった偉業を青橋由高は音符のかわりに文字を使って成し遂げたのだ!
で、至極満足して本を閉じ、ネットサーフィン(死語)を始めたところ(以下、冒頭に戻る)。
それはひどく暑い夜のことだった。

*1:「またかよ」と思う人もいるのだが、この種のフレーズはいったん身につくとなかなか離れないものだ。

*2:なお、Googleではひっかからなかったが、ここにも出てくる。

*3:BACH主題 - Wikipediaですら言及されていない……。

*4:3番目の主題がBACHの名になっている。その後4番目の主題として『フーガの技法』の基本主題をもってくる予定だったらしいが、その前に死んでしまった。

*5:初回発売時のLPと同じカップリングでジャケットも復刻したもので、1枚あたりの収録時間が半時間強という寂しいセットだった。

*6:と思うのだが、きちんと既刊をチェックしているわけではないの、断言はできない。この人この人なら即答してくれることだろうが、わざわざ尋ねることもないしなぁ。

*7:未読本は床の上に積んだ本の山に埋もれることが多いのだが、『さよなら』は比較的優先順位が高く、本棚の「仮置きスペース」に置いてあったので、発掘せずにすんだ。

*8:つまり、濡れ場のことだ。