「「「「〜を可能にする」は可能か?」についての若干のコメント」についての若干のコメント」についての若干のコメント

少し間があいてしまったが、ねことか肉球とか:「「「〜を可能にする」は可能か?」についての若干のコメント」についての若干のコメントに対して少し書いてみようと……思ったのだけれど……それよりもねことか肉球とか:「〜を可能にする」は可能か?のコメント欄の議論のほうが面白そうなので、そっちにコメントすることにしよう。

 もちろん私語で満ちることは「論理的には可能」ですし、また多分「生理的にも可能」でしょう。しかし単位の取得が最優先目標である学生たちにとって、私語を発するという選択肢は考えられず、講義室が私語で満ちることは「教員の方針および学生の目標からすると不可能」だといえます。そして当該状況を総体的に考えると、講義室が私語で満ちることは不可能だといえるのではないでしょうか。(強調したいのですが、ここでいう「不可能」とは「総体的に考えると不可能」という意味であって、「論理的に不可能」という意味(だけ)ではありません。)こう考えると、この教員の態度のせいで学生は私語を「喋<れ>ない」(不可能)状態になり、だから「喋<ら>ない」(現実)のだと考えることが自然です。つまり「喋<ら>ない」(現実)のは「喋<れ>ない」(不可能)からだ、と言えるのではないでしょうか。

 つまり、こういうことです。上で述べた理屈をつきつめると、状況を(論理的可能性だけでなく)総体的に考慮する場合には、「可能だけど現実になっていないこと」は存在しない(または言い方が不適切)ということになると思います。この場合、ある事柄は「可能」という様相では存在しえず、端的に「現実」か「不可能」(非現実)のどちらかになるのではないかと。そして上のエントリ(とくに第2節)では、この「総体的に考慮した場合」を念頭においていたのです。

今、引用した箇所には少なくとも2つの問題点が含まれている。

  1. 前段で導入された「総体的に考えると不可能」という表現は、それが表そうとしている概念に対して不適切なものである。
  2. 後段で「上で述べた理屈をつきつめると」と言いながら、実は理屈をつきつめているのではなく無造作に拡張しているに過ぎない。

では、まず第1の問題点から。
講義中に一度でも私語をしたらその学生には単位を出さないという非常に厳しい教員がいて、かつ、学生たちの最優先目標が単位の取得であるならば、ふつうは講義室が私語で満ちることはないだろう。しかし、必ず講義室が私語で満ちることはない、ということではない。言い換えれば、講義室が私語で満ちることは不可能だ、ということではない。
なぜか?
ふつうではない例外が排除されていないからだ。
厳粛な教員がいきなり頭に来て教壇の上でチャカポコチャカポコと言って踊り出したらどうか。そりゃ、いいくら単位取得が最優先の学生たちも驚いて、その場は騒然となるだろう。また、講義で使った笑い茸の影響でみんながラリってしまったらどうか。単位取得などという目的は忘れてしまって、みんなゲラゲラ笑い通すことになるだろう。地震が起こった場合、蝗の大群が襲撃してきた場合、学舎が斜め45度の角度に傾いだ場合などなど、非常事態はいくらでも考えられる。
「総体的に考える」というのは、ふつう、諸事情をすべて見回して考えるということだと思うが、もしそのように考えるならば、講義室が私語で満たされることは決して不可能だとは言えないはずだ。実は「総体的に考える」という表現で意図されているのは、例外的事例がすべて排除されている理想的状況において考えるということだ。
物理的可能性の場合に物理法則に違反するような想定が排除され、法的可能性の場合に法規範に反するような想定が排除されるのとは違って、「総体的(に考えた場合の)可能性」は何か特定のルールに基づいてそれに反する想定を排除するのではない。講義室が私語で満たされることが可能となるような想定を一括りに排除しているだけだ。
こうしてみると、不可能性の主張にとって邪魔な可能性を排除しておいて「不可能だ」と主張していることになる。一般論としてみればこれは非常に馬鹿らしい議論だが、講義室の例で一見そう見えないのは、現に起こっている状況に対してそれなりの理由づけがなされていて、排除される想定が例外的なものに留まっているからだと思われる。ということは「総体的に考えれば、講義室が私語で満ちることは不可能だ」という主張は、要するに「講義室が私語で満ちていないことには理由がある」という主張の言い換えに過ぎない。
ここまで言えば、先に挙げた第2の問題点について説明したのも同然だ。現に起こっている状況の中には、たまたまそういう状況になっているとしか言えないもの、すなわち十分な理由づけがなされていないものがいくらでもある。たとえば、講義室での私語を容認する教員がいて、かつ、学生がその講義の単位を別に欲しがっていない場合でも、たまたま私語がとぎれて静かになる時もあるだろう。そのような場合には「講義室が私語で満ちていないことには理由がある」とは言えず、従って「総体的に考えれば、講義室が私語で満ちることは不可能だ」という主張は成り立たない。
もちろん、「現に起こっている状況はすべて起こるべくして起こっているのであり、そこには常に何らかの理由があるはずだ。理由を明示できないのは、単に人間の認識能力に限界があるからに過ぎない」という考え方はあるだろう。そのような考えに従えば、当然、非現実=不可能ということになる。しかし、この考えは先の講義室の例をもとにして理屈をつきつめた結果ではなく、むしろそれに先立つものだといえる。
……いかん。この小文を書くのに3時間以上かかってしまった。
そろそろまとめに入ろう。
何が可能なことで何が不可能なことなのかということは、実を言えばよくわからない。少なくとも確かなのは、現に起こっている出来事は可能なことであり、論理的に矛盾する事柄は不可能なことだ、というだけだ。可能かどうかがわからない灰色の事象は無限に多くある。
とはいえ、物理現象についてはある程度は見通しがつけられる。今手許にあるこの紙は一度も燃やしたことはないけれど、同じ材質の別の紙は前に燃やしたことがある。だからこの紙もたぶん燃やすことが可能だろう、と。しかし、社会現象にこの論法を応用するのは難しい。なぜなら、それぞれの社会現象は他の社会現象と密接に関連しあっていて、一つ一つを切り分けて実験したり観察したりすることが非常に困難だからだ。
ではどうするか?
いちばん簡単なのは、難しいことを考えずに、論理的矛盾や物理法則違反でない事柄はすべて可能だとみなすことだ。つまり、社会現象に固有の可能性概念はないという考え方だ。
他方、社会現象が他の現象と密接に関連しあっていることを重視して、その網目によって構成されている総体、すなわち現実以外はすべて不可能だと考えるという方法もある。これも簡単でわかりやすい。こう考えれば、いちおう論理的可能性とも物理的可能性とも異なる別の可能性概念を提唱することができる。それが「総体的(に考えた場合の)可能性」ということなのだろう。しかし、可能/不可能をそのまま現実/非現実に重ね合わせるだけの可能性概念にどの程度の実用性があるのかは疑わしい。
結局、簡単に片をつけようとすれば得るものもないということだ。
たぶん、ふたつの両極端の道の間をゆくのが実りある進路だと思うが、さて、具体的にどうやって道なき道を切り開いていけばいいのかは皆目見当がつかない。途方に暮れたところで、近所の鶏が鳴き始めたので、今回はこれでおしまい。