つまらないかもしれませんが、聞いてください

遠まわりする雛

遠まわりする雛

ここ数日、あちこちで「切腹」という言葉をよく見かける。いったいどういうことだろうと思っていたのだが、ここを見てようやくわけがわかった。
さて、石野休日氏の『遠まわりする雛』レビューで『さよなら妖精』に言及して興味深い指摘がなされている。遠まわりする雛』と『さよなら妖精』の両方を読んでいる人だけ、石野氏のレビューを(コメント欄を含めて)読んでいただきたい。

……読みましたか?
では、話を続けます。

実は、石野氏のレビューを読むまで、『遠まわりする雛』と『さよなら妖精』の類似点には気づいていなかったのだが、確かにこれはよく似ている。ということは、『遠まわりする雛』の終盤、350ページの「つまらないかもしれませんが、聞いてください」以降の箇所は、いわゆる「死亡フラグ」ではないのかという疑念が生じてしまう。石野氏はさしたる根拠もなしに希望的観測のみでその可能性を否定したが、もちろん単純に否定できる問題ではない。あの『ボトルネック』の著者のことだから、必要とあれば登場人物をいじめるのに躊躇はしないだろう。また、もともと『さよなら妖精』が〈古典部シリーズ〉の一篇として書かれたという歴史的事実も無視できない。さらに、〈古典部シリーズ〉第1作の『氷菓』では過去の出来事の中で示されたモティーフを、来るべき出来事の中で再現することによって、シリーズとしてのまとまりがよくなることも疑いえない。
そう考えると、もはや千反田えるには明るい未来はない、と結論づけるほかない。彼女の死後、折木と伊原を主人公にした新シリーズが始まることだろう。そのとき、里志は……?
で、「切腹」に話を戻す。
石野氏は〈古典部シリーズ〉の結末が『さよなら妖精』と同じになったら切腹するそうだ。なら、石野氏を切腹させるために〈古典部シリーズ〉の結末を『さよなら妖精』と同じにするという謀略が成立するのではないか。木を隠すには森の中。ひとりの切腹死体はユーゴ動乱の多数の死者の中に埋もれてしまうことだろう。
この謀略をもっとも円滑に実行できるのは作者である米澤穂信だが、他の人物でも不可能ではない。たとえば、〈古典部シリーズ〉最終作の束見本を入手して、中身を自分が書いた偽〈古典部シリーズ〉最終作と入れ替える。そして、本当の最終作の発売日と同時くらいに石野氏に偽最終作を手渡して読ませるのだ。このタイミングが難しい。発売日より前だと、石野氏の死体が発見されたとき「どうしてこの人は本が出る前に読んでいたのか?」と疑いをもつおそれがあるし、発売日を過ぎてからだと石野氏が本物の最終作を先に読んでしまっているかもしれない。
首尾よく「えるたんのいない世界は灰色です。もう生きていたくない」という感じの遺書を書かせることができれば、明らかな自殺だから犯人に疑いが向けられることはないし、仮に疑われても死亡時刻に鉄壁のアリバイを用意しておけばいい。パーフェクトだ。完全犯罪だ!
いや、違う。
石野氏の遺書では〈古典部シリーズ〉最終作で千反田えるが死んだと書かれているのに、本当はそうなっていないのだから、そこに矛盾がある。というか、石野氏の手許に偽〈古典部シリーズ〉最終作を遺したままだと、バレバレだ。もし、今この文章を読んでいる人の中に、実際にこの方法で石野氏を死に至らしめようと思う人がいたとしたら、この難点をクリアする手段を考えてからにすることをおすすめする。まあ、どうせ後でばれたって殺人の罪に問われることはないだろうけど。