ステルス超音速機を隠し持っていてはいけない理由

 sirouto2さんは「有力な別解が出てくるまでは、最有力な答えを正解にしておいて問題ありません」とおっしゃいますが、それは違います。叙述トリックを用いたミステリにおいて「最有力な答え」など存在せずすべての別解が同等の有力性を持っているのです。

別にsirouto2氏の肩を持つつもりはないが、叙述トリックを用いたミステリであっても「最有力な答え」が存在することがあり得る*1と思う。以下、その根拠を説明する。なお、『予告探偵―西郷家の謎』は未読だし、今後読む機会があるかもしれないので、この作品を例にとって説明している箇所は読み飛ばしたことを予め断っておく。
叙述トリックを用いた「フェアな」*2ミステリは「作中に明示的に記述された情報と、明示的には記述されていないが常識的には読み込むことが自然であるような情報*3を組み合わせると辻褄があわなくなるが、常識の一部を読み込まないでおくことにより整合性を保ち、謎を解決できる」という特徴をもつ。秋山氏の批判は、常識のうち、どの情報を退け、どの情報を保持しつづけるかによって、無限に多くの整合的な解釈のパターンが成立しうるため、解決を一意に導けないというものだ*4
ここまでは正しい。だが、「すべての別解が同等の有力性を持っている」と言ってしまうのは議論の飛躍だ。なぜなら、常識の中にもやわらかいものとかたいものとがあるからだ。
たとえば、「ふつう単に『山手線』といえばJR山手線のことを指す」という常識は、比較的やわらかいだろう。東京の風景には合致しないが、神戸の風景には合致するような描写があれば、矛盾回避のためにこの常識を捨てることは容易だ。他方、「ふつう個人がステルス超音速機を隠し持っていることはない」という常識は、単なる「山手線」という言葉の用法に関する常識に比べると、よりかたいものであり、捨て去るには勇気がいる。高村薫が元米軍属だったとか、やたらとミリタリーに関する知識があるとか、そのような補助的な手がかりがあれば、この常識も多少はやわらかくなるだろうが、「山手線」の常識を上回るほどのやわらかさを得るためにはかなりの仕込みが必要だ。
「その可能性がどんなにばかげていて、常識的に考えて検討するに値しなかったとしても、その理性の裏をかくのが叙述トリックなのです。」と秋山氏は言う。だが、有能なミステリ作家はかたい常識をやわらかくするためにさまざまな道具立てを用意して読者に挑むのだということを忘れてはならない。そして、芸も工夫もなく「みんなこの人物のことを男性だと思ってただろうけど、地の文のどこにも男だって書いていないでしょ。わっはっは」とから笑いをするだけの愚作*5のことも。
さて、常識の一部を捨て去るという点では同じであっても、捨て去られる常識がかたいやわらかいかによって、得られる解決には優劣が生じうる。ただし、先にも述べたように同じ常識が作中の記述次第でかたいままであったりやわらかくなったりもするのだから、この区別は絶対的なものではない。もし、かたい常識をかたいまま捨て去ることを読者に要求するミステリがアンフェアで、もともとやわらかい常識や、手練手管によってやわらかくした常識を除去することで無理なく整合的な解決を導くミステリがフェアなのだとすれば、叙述トリックを用いたミステリにおいては、フェアなミステリとアンフェアなミステリの間に明確な境界線はなく、単に程度の違いがあるだけだということになる。これは、sirouto2氏のミステリ観には反するかもしれないが、「最有力な答え」などの表現の意味を汲む限り避けられない論理的帰結であると思われるし、また避ける必要もないと思われる。

*1:常に「最有力な答え」がある、というわけではない。

*2:sirouto2氏が要求するフェアプレイの基準を満たしているという意味で。

*3:以下、単に「常識」という。ただし、それが日常生活における常識と一致するとは限らない。あくまでもミステリという特殊文芸を読み書きする上での暗黙の了解事項のことだ。もっとも、以下の議論では話を簡単にするため、日常生活の常識とミステリの「常識」の差異という問題には踏み込まない。

*4:と思うが、違っていたらごめん。

*5:その昔、光文社文庫の『本格推理』にはこんな感じの叙述トリックものがいくつもありました。