ミステリのフェアプレイの話と結びつくかどうかはわからないけど、いちおう書いておきましょう

クワインデュエムのテーゼを大幅に拡張した。彼は論文「経験主義の2つのドグマ」の中で、信念の検証に関する全体論を主張する。それによると、われわれの信念の体系は全体としてひとつの網の目をなしていて、けっして個別に外部からの刺激(観察)と相対するということがなく、常に網の目全体として観察と向き合う。網の目から導かれる予測と観察が矛盾しても、網の目のどこかを修正すれば矛盾は解消でき、どれか特定の信念が反証されるということはない。逆に、経験による改訂の可能性を原理的に逃れている信念というものもなく、場合によっては論理学の公理なども改訂されうる。こうした全体論の帰結として、対立する二つの理論があるとき、経験によってそのどちらかが否定されるということはなく、どんな経験に対してもどんな信念でも保持しつづけることができる。これがクワインのテーゼである。

 以上のように「デュエムクワイン・テーゼ」は、反証の過程においてすら、理論選択を強制する一義的な論理的アルゴリズムが存在しないことを明らかにしました。それでは、論理的基準が存在しないのならば、実際の理論選択はいかなる基準に従ってなされるのでしょうか。クワインはそれに「保守主義」と「プラグマティズム」をもって答えています。つまり、そこでは知識-信念体系の全体をできるだけ乱すまいとする傾向と理論の単純性の追求などの考慮が働く、ということでしょう。