ミステリのフェアプレイに関する極論

フェアンフェア - Log of ROYGBを読んで思いついたことを書いてみる。自分でもどこまで擁護できるかわからない怪しげな説だが。

  • 原則として、ミステリでは地の文で虚偽の記述を行ってはならない。
    • 三人称の小説の場合には、視点人物が事実誤認している場合でも、誤認した内容を事実として地の文に書いてはいけない。
    • 一人称の小説の場合には、視点人物が事実誤認している場合には、誤認した内容を事実として地の文に書くのはやむを得ない。
      • ただし、誤認した内容を事実として地の文に書くのが許されるのは、作中での記述が事実誤認している間になされている場合に限る。
      • 事件が解決された後に過去を回想して記述するというスタイルの場合には、原則どおり虚偽の記述を行ってはならない。
  • 原則として、ミステリではデータの隠蔽を行っても構わない。
    • ただし、当該データを隠蔽することで、謎解きが不可能になってしまう場合は、隠蔽してはならない。
    • また、当該データを隠蔽することで、当該データの逆を暗黙のうちに提示することになる場合は、隠蔽に制約が加わる。
      • 当該データの逆を暗黙のうちに提示することになる場合でも、他のデータとの突合により明らかな矛盾が生じる場合であり、かつ他のデータの信頼性が著しく勝る場合に限り、当該データの隠蔽は容認される。
    • 視点人物が犯人であるかまたは犯人を知っている場合に、視点人物の心理描写を行いつつ、当該視点人物が犯人の正体について意識する場面のみ心理描写を省くのは、データの隠蔽に相当する。
      • 一人称の小説の場合は、このようなデータの隠蔽により暗黙のうちに提示されることになる「語り手は犯人の正体を知らない」というデータを退けうるような、他のデータとの突合は非常に困難である。
        • なお、クリスティの例のアレは手記のスタイルをとっているので、ここでいう「一人称の小説」には該当しない。
        • クリスティの例のアレは手記の内容を保証する外部の記述が存在しないという点でアンフェアの疑いが濃厚だが、それはまた別の話だ。
      • 三人称の小説の場合は、視点人物の心理描写を一切省いてしまうという離れ業により、データを隠蔽しつつ、当該データの逆を暗黙のうちに提示しないでおくことが可能となる。
      • 一人称であれ三人称であれ、視点人物が犯人の正体について意識する場面がなければ、当該視点人物の心理描写を行っても隠蔽されるべきデータがないことになる。
        • たとえば、犯人が記憶喪失などにより、自分が犯人であると意識する場面がない場合など。
        • 犯行前の記述を犯行後の記述と誤認させるという叙述トリックを用いた作例もある。
  • 原則として、ミステリは現実世界のルールに従って構成されなければならない。
    • ただし、SFミステリなどで明示的に現実世界のルールからの逸脱が宣言されている場合は、その宣言の範囲内でローカルルールを設定することは差し支えない。
    • 明示的な宣言なしに現実世界のルールをねじ曲げるのは万死に値する。
      • 爬虫類はミルクを飲まないんだから、ホームズは死ね。全然飲まないわけでもないらしい。ホームズ先生を疑ってごめん。
      • ドライアイスが溶けても一酸化炭素なんか発生しないんだから、フェル博士も死ね。