「商業創作」の評価

さまざまな優劣の評価軸、たとえば文芸的技巧だとか、テーマの現代性だとか、色々ある中に、「商業性」という軸もある。商業創作を評価する上ではこの一軸は必要条件だ(この観点で評価されないものは、商業創作ではないだろう)、それだけがすべてだとは言わないけど。

でも、創作作品を評価することと、作り手の労働問題を考えることとは、根本的に別だと俺は思うんだよね。商業創作者は確かに労働者だし、商業創作は労働だけど、商業創作作品の評価は、作り手の労働に対する評価ではないだろうと。作品は作品として、作り手の事情とは独立して評価されるべきだと俺は思う。

うーむ、むむむ。
続けてふたつの文章を読んで、頭が混乱してきた。
前者では、商業創作の評価軸として「商業性」が必要だ、と主張している。「商業性」という言葉の意味の直接の説明はないけれど、単純にいえば「売れるか売れないか」ということだろう。商業創作から、市場で流通し金銭で買われていく商品としての側面を切り離して、端的に作品としてのみ評価することはできない、という含みがあるように読める。
他方、後者では、同じ商業創作について、市場の事情を無視して作品として評価すべきだと主張しているように思われる。
これはどういうことだろう?
商品の作り手の労働市場と、できあがった商品が売買される商品市場は同じものではないので、商業創作の評価に際して一方の市場を無視して一方を重視したとしても、別に矛盾はない。ただ、なぜ労働市場の事情を無視して商品市場の事情を重視するのか、その逆*1であってはならないのか、ということについては何らかの説明が必要ではないか。
「商業創作」とはたまたま商品市場で流通している創作品を包括する名称であって、非商業創作との区別は名目的なものに過ぎない、と割り切って考えるなら、商業創作のみに適用される評価軸などといったものは不要だろう。逆に、商業創作にとって商品として売買されるということは、「たまたま」ではなく本質的なことであり、当然、非商業創作と別の評価軸が必要となるはずだと考えるなら、「労働としての創作」という商業創作に固有の要素にまで踏み入って評価を行うことは決して不自然ではない。
ところで、その昔、「エロゲはエロくなければならないか?」という論争があったことを思い出した。

エロいからエロゲって言うんですよ派
エロゲはまずもってエロいゲームでなければならない。エロ以外の要素が入っていていいかどうかは、その後の話だ。エロゲのくせに全然エロくないゲームなんか、一般ゲーにすればいいんだ。
エロなんて飾りに過ぎんのです派
エロゲというのは、要するにレイティングの都合で便宜的に作られたカテゴリーに過ぎず、ジャンルとしての実体を持つものではない。従って、すべてのエロゲに共通の評価基準などありはしないのだ。「エロゲはすべからくエロくなくてはならない」などというのは押しつけに過ぎない。

上の商業創作の話とは違うところもあるけれど、どちらも基本的なタームの中に含まれる修飾句*2を単なる限定の道具とみなすか、それとも規範・規律表現とみなすかということがポイントとなる。その点について意見の一致が見られなければ、議論は平行線を辿ることになるだろう。
余談だが、今述べたことを「つまり、キータームをきちんと定義しないといけないということだね」と理解した人がいたとすれば、それは全くの誤解だ。仮に議論の当事者の間で語の定義について意見の一致が見られたとしても*3、上記の事柄についての不一致は解消されずに残りうる。また、語の定義について合意が得られなくても、上記の事柄について共通諒解が成立すれば議論が前進する可能性がある。何度もことあるたびに言っていることだけれど、たいていの言葉の問題にとって定義はさほど重要ではない。

*1:「商業創作はそれを作った労働者の生活とは切っても切り離せないので、商業創作の優劣を評価するには作者の側の事情も考慮にいれなければならない。しかし、いったん作者の手を離れた作品が売れようが売れまいが、作品の評価にとって何の関係もない」という主張。

*2:「商業」とか「エロ」とか。

*3:実際にはそんなことは滅多にないが。