蛯沢真冬 15歳の記憶

さよならピアノソナタ (電撃文庫)

さよならピアノソナタ (電撃文庫)

本書のヒロインである蛯沢真冬は高校一年生の女の子*1で、ピアニストでバッハ弾きだ。現代においてピアニストであり、かつ、バッハ弾きでもあるということは、ある種の緊張状態におかれている*2のだが、そっち方面の微妙な問題を匂わせる記述は見あたらない。
では、なぜ真冬はバッハ弾きなのか?
(以下、作品の内容に触れます。未読の人の興をそぐ恐れがあるため、まだ『さよならピアノソナタ』を読んでいない人は決してこの先を読まないようにしてください
真冬がバッハ弾きである理由、それは極めて技巧的でパズル的構成をもつ*3さよならピアノソナタ』という作品のプロットに寄与するためだ。既に了解済み*4のことだが、いちおう確認しておこう。
真冬がバッハの「平均律クラヴィーア曲集」に含まれる前奏曲のみをギターで演奏するというシーンで、彼女のピアノに対する思いがまだ継続していることと、にもかかわらず現在の彼女には演奏できない曲があるということが明確に示される。さらに、そのシーンは彼女がひとりでは演奏できない楽曲の形式としてのフーガを浮かび上がらせる効果をも持っている。この「平均律前奏曲だけ連続演奏」は『さよならピアノソナタ』にとって非常に重要な役割を果たしているのだが、もし真冬がバッハ弾きでなければ、わざわざこんな不自然な演奏を行う必要は全くない。世の中にはピアノ曲はごまんとあり、その中から編曲してギターで演奏できる曲を選ぶのは全く造作もないことだ。実際、彼女は手すさびでリストやショパンもギターで演奏している*5のだから。だから、彼女はバッハ弾きでなければならなかったのだ*6
もっとも、真冬をバッハ弾きに設定しておきながら、いくつかの場面ではバッハ以外の作曲家の音楽に重きが置かれている。たとえば冒頭で真冬がピアノで弾く協奏曲はバッハの作ではない。また、真冬と桧川ナオが勝負する音楽は、ベートーヴェンのフーガだ。もちろん、バッハ弾きがバッハしか弾かないというわけではないし、神楽坂響子が勝負の音楽を選定する際にバッハの音楽から選ばなければならないという道理もない。それぞれの場面の音楽は、それぞれやむを得ない事情と合理的な理由によって選ばれているので、その限りにおいて欠陥があるわけではない。
だが、それぞれの選択は合理的であっても、この『さよならピアノソナタ』全体を通して読むと、選曲が場当たり的で散漫な印象を受けるのも事実だ。ベートーヴェンを引っ張り出すために、前もってチャック・ベリーの言葉を引用しておいて唐突さを和らげるという技巧は認めよう。でも、やっぱりフーガといえばバッハだろう。せっかくバッハ弾きを登場させて、バッハが生涯にわたって取り組んだフーガという楽曲形式に読者の関心を惹きつけておきながら、肝腎要のところでベートーヴェンのフーガを持ち出されたのでは腰砕けだ。ここは、なんとか「パッサカリア」あたりで粘れなかったものか。また、冒頭のシーンの音楽も、たとえばブラームスが編曲した「シャコンヌ*7を選ぶという手もあった*8はずだ。
おそらく、作者は特にバッハに思い入れがあるわけではなく、上記のような事情で真冬をバッハ弾きにしたためその事情にかかる場面ではバッハの音楽を用いたものの、それ以外の場面ではそれぞれ都合のよい特徴をもつ他の作曲家の音楽を用いることに抵抗はなかったのだろう。それに対してバッハファンが「どうしてバッハづくしにしなかったのか?」と問いつめるのは筋違いなのかもしれない。きっと、バッハファンでもなければクラシック音楽ファンでもない大多数の読者にとっても、どうだっていいことだろう。しかし、バッハファンの目からみた『さよならピアノソナタ』への不満は、もしかするとこの作品の弱点のひとつの帰結として捉え直すことができるのではないか。あまりうまく説明できないのだが、この作品には芸術に取り憑かれた天才のもつ研ぎ澄まされた感性の持つ凄みが感じられず、「ボーイ・ミーツ・ガール+音楽小ネタ集」としてこじんまりまとまってしまっていて、その弱さと先に述べたバッハの扱いの中途半端さの間に何か繋がりがあるような気がするのだ。思い違いかもしれないが。
ともあれ、”EBISAWA Mafuyu Off the Record”は終わった。次は当然、”EBISAWA Mafuyu On the Record”だろう。帰国して本格的に音楽活動に戻った真冬の音楽家としての苦悩、壁、業そして情念。一方、芸術の世界に外から間接的にしか触れることのできない評論家、ナオ。二人の関係はどう交差し、あるいは交差せずに進むのか? 大いに期待したい。

追記

上では『さよならピアノソナタ』の続篇に期待するというようなことを書いたが、順当にいけば次はやっぱり『神様のメモ帳』だろうなぁ、と思っていた。ところが、ここを見ると新規レーベルから杉井光作品の刊行が予定されているらしい。詳細は不明だが、タイトルから察するにデビュー作『火目の巫女』のような伝奇ものかもしれない。

*1:見出しでは15歳と書いたが、もしかしたら16歳かもしれない。名前が「真冬」だから誕生日も冬で、まだ16歳にはなっていないだろうと推測したが、はずれているかもしれないし、年齢を特定する記述を読み逃しているかもしれない。ごめん、と先に謝っておく。

*2:かつては、音楽の世界にも進歩史観が幅をきかせていて、ピアノでバッハを弾くことに何の疑いももたれていなかったらしい。だが、古楽復興運動の洗礼を受けた現代人は、本来ピアノのために書かれたわけではないバッハの音楽を、さもピアノ曲であるかのように演奏することに無自覚ではいられなくなっている。「バッハをピアノで弾くのは邪道だ」と言っているのではない。バッハの音楽は使用楽器の変更に対して耐性があり、ちょっとやそっとでは同一性が崩れることはない。作中で真冬が行っているようにギターで弾いてもバッハはバッハだ。だからもちろんバッハをピアノで弾いても構わない。しかし、だからといってバッハのクラヴィーア曲が最初からピアノ曲だっということになるわけではないのも当然のことだ。

*3:つまり、ミステリ的ということ。ジャンル小説としての「ミステリ」にこの作品を分類するかどうかは別として、伏線の張り方や謎の提示の仕方、そして伏線が回収されて謎の真相が明らかになる手続きには、黄金期のパズラーを思わせるものがある。

*4:先に人払いをしたので、今この文章を読んでいるあなたは、既に『さよならピアノソナタ』を読んでいるはずだ。

*5:「本当にそんなことができるのかね?」という疑問がないではない。しかし、この作中世界では「素早い運指による超絶技巧は天才の手にかかればギターでたやすく再現できるが、フーガのような多声音楽はギターでは演奏できない」という明快なルールが設定されているのだと考えれば、まあ納得できるだろう。

*6:そして、そのような事情で真冬にピアニストでバッハ弾きという属性を与えられたのだから、この文章の最初の註で述べたような、バッハをピアノで弾くことの問題に自覚的であることはできず、また、その必要もない。

*7:なんならウィトゲンシュタインの編曲でも構わない。

*8:もっとも、その場合には幻の管弦楽という魅力的な要素を捨てざるを得ないが、少なくともこの作品の骨格を揺るがすものではない。