「文学」とは?

上の話題とも関連するのだが、「文学」という言葉について少し書いておこう。
もともとこの言葉は「学問」とほぼ同じ意味だったらしい。「文化」「文明」「文武」「文民」などの「文」に、似た意味の「学」をつけて「文−学」だ。もっとも、このような用法は既に廃れてしまっているので、明治の頃の文章を読むのでない限り、あまり考える必要はない。
次に、ぐっと範囲が狭まって、「文に関する学」としての「文学」がある。これにも広い意味と狭い意味があって、広い意味での「文学」には哲学や史学なども含む。大学改革以前の多くの大学の文学部で講じられていたような学問領域だ。狭い意味では、これも大学改革以前の多くの大学の文学科で講じられていたような学問領域だ。言語学を含むのか除くのか、などさらに細かな意味の区分も可能だが、「文学」の線引きまでは立ち入らないことにする。
ここまでが学問としての「文学」だが、「文学」にはもう一つ、芸術としての「文学」という用法群があり、話がややこしくなる。
芸術としての「文学」を広くとれば、(狭義の)学問としての「文学」が研究対象とする芸術活動やその活動によって生み出された作品を指す。はじめに詩歌があり、次に戯曲がうまれ、ずっと下って小説が誕生した。ほかに随筆、紀行文、日記*1などがある。芸術かどうかが微妙なものに評論があり、文以外の要素が含まれる絵物語やマンガなどもあるので、広い意味での「文学」を厳密に境界づけるのは困難だが、先と同じく線引き問題には立ち入らない。
さて、この「文学」の中で現在もっとも華々しく生産されているのが小説であり、しばしば「小説」と「文学」が同一視される。さらに、小説の中にさまざまなスタイルや趣向のものがあり、そのうちの一部、特に芸術としての側面を強調したものを「純文学」と呼び、「大衆文学」と区別することがあるのだが、区別されたうちの前者のみを指して「文学」と呼ぶこともある。これは、「芸術」の中に「純粋芸術」と「大衆芸術」を区別する仕方とほぼパラレルなものと言えるだろう。
芸術としての「文学」はまた「文芸」とも呼ばれるが、字面の上での対比だと、「学」を含む前者より「芸」を含む後者のほうがより芸術としての側面を強調しているように思えるのだが、実際には「文芸」のほうがより包括的で、「文学」はより限られたものを指すことが多いように思われる。なぜそうなっているのかはわからないが、それぞれの言葉の歴史の違いに基づくのだろう。
ともあれ、「文学」という言葉は非常にややこしい。その長い歴史のすべてを正確に把握しておかなければ「文学」という言葉は使えない/使ってはいけない、などと言ってしまっては窮屈だし、自己論駁的*2だ。また、同じ事情を抱えた他の多くの言葉*3も使えなくなってしまう。ただ、「○○は文学じゃない」というような発言をする人や、その発言に異議を唱える人は、「文学」という言葉にはさまざまなややこしい含みがあって一筋縄ではいかないということを、多少とも念頭においてもらいたいと思う。さもなければ、議論は限りなく混乱し、迷走を続け、あとには不毛なテキストと徒労と感情的なしこりしか残らないだろうから。

*1:土佐日記』とか『十六夜日記』などの日記。日本文学以外にも「日記」とカテゴライズされる文学があるのかどうかは知らない。

*2:実際、ここで素描した以外にも「文学」にはまざまな来歴や用法があり、当然のことながらそれらすべてを知っているわけではないし、本文に書いたことの中にも誤りが含まれているおそれがある。

*3:たとえば「芸術」もそうだ。