並べてみよう

文章が上手いということには、巨乳を描くのがうまいということと「まったく」同等の価値しかない。単なる趣味の違いでしかない。文学屋が頼ってる無前提の価値のヒエラルキーが俺は気に食わないわけで。「それ、なんか偉いの?」と言われたら終わり、っつーのは、どんなに「伝統的」で「高尚」な芸術でも同じです。携帯小説エロゲーを笑う文学屋は、まったく同じ勢いで他に笑われる覚悟がどれだけ出来てんだろうなあと。

ていうか、文学が高尚で携帯小説が低俗、というヒエラルキーを本気で信じている無邪気な人はまあいいんだけど、うすうすそんなの幻想だとわかってて、あえて一切疑わず妄信している振りをするのがスノッブでかっこいいと思ってる人がいそうでそれが一番気に食わない。

 ようするに、ひきこもりの当事者にとって重要なのは、実際にはオタク文化でもハイ・カルチャーでもないのである。

 かれらにとって本当に重要なもの、それは、その文化に貼られたレッテルであり、社会がその文化をどう見ているか、という問題である。

 だから、かれらは世間の価値観をそのままなぞって文学や名画を「高尚」とし、オタク文化を「低俗」と看做す。斎藤はその価値観を「かなり俗っぽい」と称しているのだろう。