限界集落の水源の上流

以前、限界集落の水源という記事を書いた。その中で、

そこで、図書館に行って、『山村環境社会学序説』を調べてみると、その第2章「現代山村の高齢化と限界集落」の初出が新日本出版社の『経済』1991年7月号で、原題は「山村の高齢化と限界集落」だと書かれていた。たぶん、これが「限界集落」の初出論文なのだろう。
ただ、『山村環境社会学序説』第2章を読んでみると、どうも「さあ、これから『限界集落』という新しい言葉を使ってやるぞ」という意気込みのようなものが感じられない。というか、「限界集落とは何か」という説明すらほとんどなく、ただ淡々と限界集落の状況について書いている。本にまとめる際に重複する箇所を削除したのかもしれないが、序章にも第1章にも明確な規定がないのが不思議だ。

と書いたのだが、その後、大野晃教授の講演会で配布された資料を某所から入手した。そこには、大野氏が新聞などに寄稿した文章がいくつか掲載されていたのだが、その中に日本農業新聞の1990年6月25日の「視点 山村の限界集落 現代的貧困にあえぐ」という記事があった。そこには

私は、高齢化によって六十五歳以上の高齢者が半数を超え、そのため集落の自治機能が低下し、人間が社会生活を営む限界状況におかれている集落を「限界集落」と呼び、そこに暮らす人々の生活実態を調査してきた。

とはっきり書かれていた。
この書きぶりだと、「限界集落」という言葉は1980年代まで遡れそうな感じだ。
ところで、「限界集落」という言葉は危機感を煽るのには有効だが、実際に過疎地に暮らす人々相手にはちょっと使いづらい言葉でもある。で、最近は「水源の里」という言葉*1がよく用いられるようになった。
「水源の里」というフレーズそのものはたぶん大昔からあると思うが、これを「限界集落」の類義語として使い始めたのは京都府綾部市が最初らしい。このあたりをみると、「水源の里」の雰囲気が掴めるだろう。
さて、この「水源の里」が現在の用法で用いられるようになったのはいつ頃で、いったい誰が使い始めたのか? これがさっぱりわからない。いろいろ調べたところ、2006年3月に発行された『第4次綾部市総合計画・後期基本計画』の第6章に

地域住民等で構成する「水源の里を考える会」を設置・開催し、過疎・高齢化が著しく廃村の危機に直面する地域の現状を把握するとともに、その対策を研究・検討します。

という一文があって、どうもこれが文献上の初出のようだ。だが、「水源の里」とは何かという説明は全く書かれていないし、『第4次綾部市総合計画・後期基本計画』全体を読み通しても*2たった1回しか出てこない。
さらにいろいろ調べてみると、滋賀県甲賀郡信楽町*3で「水源の里しがらきの会」という団体が1999年に設立*4されている。この団体名の「水源の里」というのは字面通りの意味で、別に「限界集落」に類似した含みはないようだが、京都府滋賀県は隣同士*5だからもしかしたら何か関係があるのかもしれない。
言葉の起源を詮索しても何かが生まれるわけではなく、起源が不明でも現在の用法が安定的であれば何も問題はない。だから、どうでもいい話ではあるのだが、ちょっとした暇つぶしにはなる。問題は、今仕事が猛烈に忙しくて暇つぶしをしている余裕などないということだ。さて、どうしよう。

*1:厳密にいえば「限界集落」と「水源の里」は同じ意味ではないが、だいたい似たような状況の集落を指す。

*2:本当に全部読んだわけではなく、PDFファイルの検索ですませた。

*3:2004年に合併して甲賀市となり廃止された。ちなみに「甲賀」は「こうか」と読む。

*4:ここを参照。

*5:とはいえ、綾部市京都府北西部、信楽町滋賀県南東部で、全然離れている。