地域格差とは地域と地域の間の格差

余談であるが、私が地域格差に冷淡なのも、転居の自由が憲法で保証されているからだ。中国みたく、都市戸籍がなければその都市に住めないというのであればとにかく、日本はそういう国ではない。いやなら引っ越せばいい。自由がある以上、その自由を行使した結果、すなわち責任も我々にある。

「余談であるが」という前置きつきで言っていることなので、あまり重く受け止めるようなことではないのかもしれないが、この文章の流れにこの「余談」が出てくることにやや疑問があるので、ちょっとコメントしておこう。
見出しでも書いたとおり、私見では地域格差とは地域と地域の間の格差のことだ。この点を強調するのに「地域間格差」という言葉を使うこともあって、個人的には「地域格差」よりも好みなのだが、どちらでも意味は同じだ。要するに、人と人の間の格差ではない。「東京に住んでいるAさんと島根県に住んでいるBさんは同じ年齢で同じ資格をもって同じ職業に就いているのに、年間収入は2.35倍の開きがあります」というような話*1ではないのだ。それは単なる例示に過ぎない。
島根県のBさんには転居の自由があり、その自由を行使せずに比較劣位におかれたのはBさんの自己責任だ」。この主張そのものにいくつもの問題点が含まれているが、ここでは触れない*2。今問題にしたいのはこうだ。島根県には東京に転居する自由はない。*3
地域に住む人は別の地域に転居できるが、地域そのものは転居できない。より正確にいえば、「地域が別の地域に転居する」という表現は「転居」という語をそれと適合しない「地域」と結合したナンセンスな文である。よって、地域格差の問題に「転居の自由」を持ち出すのは、カテゴリーミステイクということになると思う。
もっとも、ここまで強く主張すると異論も出るかもしれない。「地域とは、要するに地域に住む人々のことではないか。地域が人々に還元できるのだとすれば、『地域が転居する』という表現は『地域に住む人々が転居する』という表現の言い換えに過ぎず、ここには概念的問題は生じない」と。そのような還元主義には同意しないが、一歩譲ってそれを認めたとしよう。
さて、島根県に住むすべての人々、あるいはすべてではないにしても当該地域を構成していると認められる程度の多数の人々が東京に転居したらどうなるか? 地域格差は是正されるのか?
たぶん、そうはならない。東京という地理的空間の中に別の格差構造が生まれるだけだ。
そう考えると、地域格差の問題に対して、転居の自由という観念を持ち出すのは、やはり筋違いなのではないかと思われる。

*1:これは今思いついた例なので、数値には特に意味がない。また、別に秋田県でも和歌山県でも高知県でもよかったのだが、さっき石見銀山関係の記事を読んだばかりだったので、島根県を例に挙げた。気分を害した人はごめんなさい。

*2:アレゴリー化する悲惨体験 - 過ぎ去ろうとしない過去がよくまとまっているように思った。

*3:なお、ここでの「県」は地方自治体やその行政組織としての県のことではなくて、一定の空間的領域のことを指す。県庁は県内になければならないという法律はないから、やろうと思えば島根県庁を松江から東京に移すことは可能だ。