黒歴史の王国で

子供の頃、空想のおもむくままにノートの切れっ端や広告チラシの裏などに落書きをした経験をもつ人は多いだろう。自分の才能に酔いしれ、全世界を掌握したかのような全能感と多幸感の中で、自分だけの、他人にとっては馬鹿馬鹿しくも滑稽な「作品」を垂れ流したことが一度もない人など、たぶん世界中探しても1327人(推定)しかいないに違いない。
だが、たいていの人はそれらの「作品」にやがて興味を失い、自分の才能に見切りをつけ、大人になっていくにつれ、「作品」を恥じて忘れ去ろうとする。ノートは部屋の片付けや引っ越しの際に処分され、辛うじて廃棄を免れたものも箱か棚の奥底にしまわれて日の目を見ることがない。これもよくある話だ。
中には成長してからも子供の心を忘れずに「作品」を作り続ける人がいる。そうはいっても、大人の羞恥心もある程度は持ち合わせているから、決して他人に見せることなく、ただこつこつと「作品」を生み出し続けるのだが。インターネットという厄介なツールのおかげで大人の自制心のたががゆるんで、「作品」が他人の目にも可視化されてしまい、後になって悔やんで削除したものの、インターネットアーカイブで発掘されて頭を抱えることになったりする人もいて、たとえば、今をときめく某ミステリ作家がデビュー前に書いたファンタジーだとか、同じく今をときめく某ライトノベル作家がデビュー前に書いた学園青春ものだとか、そういった代物が暴露されたりすると楽しいだろうと思うのだが、さすがに武士の情けというものもあるので、知っていてもここにはリンクを張らずに一人でこっそり楽しむことにしているのだけれど、それにしてもあの人がこんなのを書いていたのかと思うだけで笑いがこみあげてくることよ。
脱線した。
ええと。
大人になってもこつこつと「作品」を生み出し続けて、年をとってもこつこつと「作品」を生み出し続けて、ついに廃棄することなく人生を終えた一人の人物がいる。その人物は生前全く無名で、誰からも注目されず、ひっそりと静かな生活を続けたのだが、死後にわかに脚光を浴び、世界中で展覧会が開かれ、画集が発売され、学者に分析され、芸術家に影響を受けられてしまい、ついには映画化までされてしまった。それが、ヘンリー・ダーガーだ。

ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892年4月12日-1973年4月13日)は『非現実の王国で』の作者である。英語の発音はダージャーに近い。アウトサイダー・アートの代表的な作家のひとりである。誰に見せることもなく半世紀以上自分の妄想を書き続けた彼の人生それ自体が芸術ともいえる。

前々からダーガーには興味があって、2003年にワタリウム美術館で、2007年に原美術館でそれぞれ開催された展覧会にも足を運んだが、彼の遺した作品をみても今ひとつわからないところがあった。膨大な作品の中のわずかな断片を人混みの中で*1眺めただけだから、まあ仕方ない。もどかしさを覚えつつ過ごしてきたのだが、このたびダーガーを取り扱った映画が公開されたので、早速、公開初日の昨日見に行くことにした次第。

どうせ東京で単館上映だろうと思っていたのだが、ここを見ると、3/29日から上映開始の館だけでも関東2館、関西2館の4館で、その後、北は北海道から南は沖縄まで巡回するようだ。中国四国がすっぽり抜けているのがやや寂しいが、それ以外はいちおう全国をカバーしている。もっとも根室や指宿に住んでいる人がこの映画をみようと思ったらかなり大変だろうが。
この映画の内容は、ダーガー本人の遺した自伝や関連資料、隣人や大家のインタビューなどに基づくドュキュメンタリー部分と彼の『非現実の王国で』の挿絵に基づくアニメーション部分からなる。ただし二部構成ということではなく、両者がごちゃまぜになって提示される。ナレーションや台詞を聞いても*2現実のダーガーについて語っているのか彼の物語からの引用なのかがわからない箇所が頻繁に出てくる。また、ダーガーが暮らした時代のシカゴの記録映像の中に彼の物語の主人公であるヴィヴィアン・ガールズやさまざまな架空の生き物が組み込まれて、実写とアニメがちゃんぽんになった箇所もいくつかあった。つまり、この『非現実の王国で』という映画は、厳密な意味ではドキュメンタリーでもなければノンフィクションでもない。
しかし、ダーガーが同題の物語で用いたコラージュの技法を映像の世界に移し替えて忠実に反復しているのだと考えれば、ふたつの『非現実の王国で』は相似形をなしているのだとも考えられる。賛否両論はあるだろうが、一つの試みとしては評価したい。
さて、この映画をみるまで知らなかったのだが、ダーガーの名前が本当にダーガーなのかどうかは不明だという。映画の中に登場する人々は口々に彼の名を呼ぶが、それは「ダーガー」であったり「ダージャー」であったりする。上で引用したウィキペディアの記事の「英語の発音はダージャーに近い」という書き方はやや不正確で、どちらが正しいのかははっきりしていないのだ。パンフレットをみると「本作においては、隣人メアリ・オドネルの記憶に基づき、ダージャーと発音しているが、日本語表記は、ラーナー夫妻の記憶と慣例に基づき、ダーガーとした」と注意書きが書かれている*3。これは意外だった。
もうひとつ意外だったのは、ダーガーの作品群は死後に発見されたのではなくて、実は生前に大家や隣人たちが見ていたということだ。彼は死の半年ほど前に救貧院に収容され、その病室を訪れた隣人が部屋に残された作品について「素晴らしい」と述べたところ、彼は白目をむいて絶句したという*4。非現実の王国が黒歴史の王国となった瞬間である。稀代のアウトサイダー・アーティストも人の子、さぞや居たたまれない心地だったことだろう。多少とも想像力と同情心をもつ人なら、ほろりと涙がこぼれること間違いなし!
ほかにも、ダーガーが17歳のイタリア娘にレイプされた話とか、家主のキヨコ夫人が飼っていた犬の名前がユキ(有希?)だったとか、面白いエピソードがいくつもあるのだが、それは見てのお楽しみ。

追記

冷静になって考えてみると、家主の飼い犬の名前「ユキ」は「雪」ではないかという気がしてきた。どうでもいいことだが。
もひとつどうでもいいことだが、キヨコ・ラーナーって草間彌生に似ているなぁと思っていたら同じことを考えた人がいたらしい。世の中、独創的な発想などなかなかないものだ。

*1:どちらの展覧会も大入り満員大盛況だった。ごくレアな趣味をもつ人でも母集団が大きければ実数は相当なものになるということを実感するとともに、東京以外では興行的に成り立たないだろうな、とも思った。

*2:全部英語だから実際には字幕を見ているわけだが。

*3:同じ趣旨の注意書きは映画本篇の前にも挿入されている。

*4:ここらへんはちょっと記憶があいまい。映画の最後のほうのシーンで出てくるエピソードなので、これから見に行く人は注意してみてほしい。