狼と桓武天皇

この本を買ったのは今月9日のことで、すぐ読み始めたのだがすぐ寝てしまった。
翌10日には姫路菓子博2008に行き、その翌日の11日には太陽公園に行ったのだが、両日ともさんざん歩いて疲れたので、1ページも読み進めることはなかった。
というわけで、結局、本格的に読み始めたのは13日からで、今日は15日だから、3日で読み終えたことになる。よくやった、と自分をほめててやりたい。『カラマーゾフの兄弟』と同じ日数で読めたとは。もし一週間以上かかるようだったら、「俺、『狼と香辛料VIII』読み終わったら、次に『夕陽の梨―五代英雄伝』に取りかかるんだ……」と死亡フラグネタを書くつもりでいたのだが、幸か不幸かフラグは回避することができた。
さて、今回は「対立の町<上>」という副題がついている。7巻にも「side colors」という副題がついていたが、これは6巻の続きではないサイドストーリー*1だった。8巻は6巻の直接の続篇にあたっているので、これまでの通例からすれば特に副題など必要ないようにも思われるのだが、副題に含まれる「上」の一字が示すように、いよいよ話が盛り上がってきたところでぶっつりと切れて次巻に続く構成になっているため、8巻と9巻でひとつのまとまったエピソードであることを表すという意図があったのだろう。あるいは、このシリーズの巻数表示がローマ数字なので、だんだん馴染みがない数表示になっていく*2のを補完するという意味合いもあったのかもしれない。
それまで1巻ごとにひととおりまとまったストーリーで構成されていたシリーズ作品が上下巻になるということは、あまりいい傾向とは言えない。生命力が尽きかけた物語を無理矢理延命させた結果、緊密なプロットが立てられなくなったということを意味することが多いからだ。むろん例外もある。だが、これが例外だという保証はい。そこで、相当不安な気持ちで読み進めていったのだが、結論からいえば、当初恐れていたほど悲惨な展開ではなかった。
なるほど、中盤まではストーリーのテンポが遅く、会話と註釈が延々と続くのだが、それは従来から見られた傾向であり、特に今回に限って引き延ばし感が強く感じられるということはなかった。また、いざ物語が佳境にさしかかると、ロレンスとホロの掛け合いもややスピーディーになり*3読み手の緊張感を盛り上げてくれる。6巻からひっぱっていた銅貨の詰まった箱の数の謎がえらくあっさりと明かされてしまったのにやや拍子抜けした*4が、これは瑕瑾に過ぎない。
ただし、不安が完全に解消されたわけではない。あとがきを読むと、下巻が書き上がる前に上巻が出たようだし、ここを見ても、まだ書き上がっていないようだ*5。本文にはあまり表れていないが、あとがきからは苦渋の跡が忍ばれるし、以前書いたように、どうやら一度締切を延長している節がある。下巻も同様に難航しているとすれば、某ラノベ系大手サイトが冗談めかして書いた懸念が現実のものとなる確率はゼロではないだろう。
順当にいけば、9巻は9月発売のはずだが、無期延期になるかもしれないし、「対立の町<中>」ないし「対立の町<下の上>」という副題になるかもしれない。今後の動向を注意深く見守ることとしたい。
ところで、今回の感想文の見出しについて一言。
8巻34ページのロレンスの台詞に「兵は拙速を尊ぶ」というフレーズが出てきた。これは『孫子』に出てくる言葉じゃなかったろうか、もしそうだとすると中世ヨーロッパ風異世界の住人が古代中国の兵法書を読んでいたということになり、かなり変なことになるのではないだろうか? 心配になって調べてみたら、出典は『孫子』ではなく『続日本紀』だった。桓武天皇の詔に「夫兵貴拙速」というフレーズが出てくるそうだ*6
よかった。ロレンスは『孫子』から引用したんじゃなかったんだ!

追記(2008/05/16)

上の記事に対して、はてなブックマークで次のようなコメントがつけられた。

2008年05月16日 REV 「矛盾だ」と人物が話す作品世界は、中国文化圏が想定されるわけですね。名無三。

「矛盾」の出典は『韓非子』だから、形式的には「兵は拙速を尊ぶ/貴ぶ」と同じ構図となる。しかし、ふつう単に作中人物が「矛盾」という言葉を発したからといって、中国文化圏を前提としているとは想定されない。従って、同じ構図をもつ「兵は〜」についても『孫子』ないし、その影響を受けた『続日本紀』に基づくものと考える必要はない……というのがおそらくこのコメントの趣旨だろう。もしかしたらREV氏はそこまで明確な反語を意図してはいないのかもしれないが、筆者の意向を忖度するのが目的ではないので、あえて単純化する。
これに類する話は架空の世界を舞台にした物語に対してしばしば提起される。
たとえば、

などを参照されたい。
この問題については自分でも何度か考えたことがあるが、はっきりとした答えは出ていない。

ただ、論証を抜きにして言語的直観だけを頼りにしていえば、やっぱり「矛盾」と「兵は〜」の間には大きな隔たりがあるように思う。そこには境界線はないだろうが、歴然とした差異はある。
なお、「兵は〜」の例を槍玉に挙げたあとで言うのも変だが、『狼と香辛料』シリーズはライトノベルにしてはこの種の問題に非常によく配慮されている。作中の風俗、慣習、制度、文物についてあれほど細かく描写がなされているのに、こと言語に関しては意図的にぼかして主題化することを避けているのは、このシリーズをずっと読んでいる読者にとっては言わずもがなのことだろう。

*1:通常、こういう場合は「番外篇」と呼ぶが、番外になっていないから話がややこしい。シリーズ作品の本篇と番外篇とでは売れ行きにかなり違いがあるという話を聞いたことがあるので、その種の大人の事情が絡んでいたのかもしれない。

*2:このシリーズが長期化して50巻も100巻も続いたらいったいどう表示するつもりなのだろう? 『狼と香辛料XCIX』などというタイトルを見て、とっさに何巻かわかる人はごく限られているだろう。

*3:とはいえ、普通のライトノベルに比べると登場人物の心理の動きに関する記述はずっと多い。

*4:考えようによっては馬鹿馬鹿しいかもしれないが、ここはやはり多少はったりを効かせて図解入りてで説明すべきだったと思う。

*5:上下巻の原稿が揃っていないのに上巻だけ先に出すとは、なかなか思い切ったことをするものだ。いったいどうやって校正したのだろう? ミステリでは考えられないことです。

*6:参考その1その2その3