南瓜とホチキス(ホッチキス)とその他の事物

 さて、宇宙人や未来人は、彼ら独自の言語を使っているのかもしれない。それが、小説になっている時点で、読者に最適な単語に変換されている、と考えている。ある異世界宇宙戦争もので、夕食に南瓜がでてきたからといって、「この世界にはカンボジアがあったんだ!」とは思わないし、書類をホチキスで止めたからといって(以下略、戦車がキャタピラ(以下略、戦闘機がバルカン(以下略。

 で、ことわざ辞典にあるように、現地のことわざ、慣用句は、当地のことわざ、慣用句に変換されるもの、と考えている。

昔、どこかで読んだ話。うろ覚えなので細部に事実誤認があるかもしれないが、ご容赦願いたい。
ドロシー・セイヤーズの探偵小説の戦前だったか戦後すぐだったかの訳で、主人公の貴族ピーター・ウィムジー卿が食事のあとに「饅頭」を頬張るシーンがあったらしい。今の訳では同じ箇所が「マフィン」になっているそうだ。
おそらく原文では「muffin」だったのただろう。今、「muffin」を「饅頭」と訳したなら誤訳の誹りを免れないが、戦前ないし戦後すぐという時代背景を考えると、「饅頭」が「読者に最適な単語」だったのかもしれない。
激動の20世紀を通じて、たぶん饅頭もマフィンも大きく変化はしなかっただろう。しかし、「饅頭」も「マフィン」も大きく変化した。かつて「饅頭」は餡を皮で包んだ和菓子だけでなく、類似した外国の食物をも指す言葉*1であり、「マフィン」は意味不明の片仮名の羅列に過ぎなかったのだ。
「饅頭」と「マフィン」の変化はある日突然生じたわけではなく、少しずつ次第に進んでいったものであり、またすべての読者に対して均等に変化が及んだわけでもない。ある時期には、洋菓子に馴染みにある人とそうでない人とでは、「マフィン」は異なっていただろう*2
さて、南瓜である。
「南瓜」という漢字表記はさまざまな読まれうる。そのまま読めば「なんか」だが、その他、「なんきん」とも読むし、「ぼうぶら」とも読む。いずれにせよカンボジアとは関係がないので、「南瓜」に「かぼちゃ」とルビを振らなければ、言語レベルでは特に問題はない*3ように思う。
では、「かぼちゃ」とルビを振った場合、あるいはそのまま「かぼちゃ」ないし「カボチャ」と書いた場合は問題なのか? もし読者の大部分がこの語の来歴にカンボジアという国が関わっていることをよく認知し、折に触れてそれを意識する状態であれば問題となるだろう。ちょうどファンタジーと故事成語 - NaokiTakahashiの日記で言及されている「スパルタ式」のように。逆に読者の大部分がこの語の来歴を知らないか、または、知っていてもさほど意識することがないなら、別に問題とはならないだろう。
いずれにせよ、読者が日常生活で南瓜をどう呼んでいるかということと、異世界を舞台にした小説の読者として南瓜をどうとらえるかということとは、同じことではない。「かぼちゃ」ないし「カボチャ」が「読者に最適な単語」かどうかを検討するには、この点を無視することはできない。
さて、ホチキスである。
「ホチキス」という表記は現在ではあまり使われなくなっているので、「ホッチキス」と同一視することにする。ホッチキス - Wikipediaノート:ホッチキス - Wikipediaを見ると事態は非常に錯綜していて、きちんと整理するのは難しそうだが、異世界を舞台にしたた小説に「ホッチキス」という語を出した場合に話を絞ると、この語が「読者に最適な単語」かどうかは、「ホッチキス」というのが元々発明者の名前に由来する語であるということを大多数の読者が知っていて意識するかどうかだろう。
おそらく、多くの読者は日常生活で「ステープラ」ないし「ステープラー」という語を使いはしない。「ホッチキス」が「生活者に最適な単語」とは言える。だが、それは「読者に最適な単語」と同じであるということではない。
「生活者に最適な単語」と「読者に最適な単語」の違いを別の例で説明しよう。
現在、多くの人は食事に用いる匙のことを「スプーン」と呼ぶ。だが、江戸時代を舞台にした時代小説で登場人物が「スプーン」という語を用いたとき、「これは当時の言葉を読者に最適な単語に変換しているのだ」とは考えないただろう。
では、将来、「匙」という語が完全に日本語から消え去ってしまったらどうなるか? ある時代小説作家は読者の理解のために「スプーン」という語を使わざるを得ないと決断するかもしれないし、別の作家は地の文で補足説明を加えつつ、台詞の中では「匙」を使わせるべきだと考えるかもしれない。いずれにせよ、心ある作家ならジレンマに悩まされつつ、「読者に最適な単語」を手探りで求めることだろう。未来の古語辞典には「【匙】スプーンのこと」と書かれるかもしれないが、そのような辞書的知識は検討の参考にはなっても、用語法を決定する規準にはならない。
時代小説と異世界ファンタジーとでは、むろん事情は異なる。けれど、どちらも読者の日常から離れた事象を扱っているという点では似ている。非日常を描くには非日常のことばがふさわしい。読者の理解が及ばないほど珍奇な単語を並べ立ててしまっては元も子もないが、だからといってわかりやすさを最優先して読者がふだんの会話で浸かっていることばをそのまま登場人物に喋らせてしまうのも興ざめだ、と思う。
最後に関連する話題をひとつ。

こぢんまりとまとまった万人向けの美しい恋物語ではあるのだけれど、世界設定の強度がゆるすぎることは不満といっちゃあ不満。

わかりやすさ、イメージのしやすさを優先してわざとやっていることはわかる。でも、1万2千キロとかサンタ・クルスとかサムライとかいう地球的な単語がいきなり出てくるとやっぱ萎えるわ。

せっかくいい小説を書いたのだから、どうせなら細部までこだわってもらいたかったところ。ちゃんと異世界をつくろうぜ、異世界を。

これは『とある飛空士への追憶』についてのコメントだ。
私見では「サムライ」と「サンタ・クルス」はOK、「1万2千キロ」はNG*4なのだが、さて皆さんはどうでしょう?

*1:そういえば「豚の饅頭」という愉快な言葉を思い出した。これは英語の「sow bread」の訳語だそうだが、「bread」が「饅頭」に化けたわけだ。

*2:誤解のないように言い添えておくと、洋菓子に馴染みがあろうがなかろうが、マフィンそのものに違いはない。

*3:そもそも異世界に南瓜という自然種が存在するのか、という問題は小説の設定によってい提起可能かもしれない。しかし、それはまた別に考察すべきことだと思うので、これ以上は触れない。

*4:いちおう理由づけはしているのだが、根拠薄弱な感じがするので説明は控えておく。自分の感想文を読み返してみると、「いろいろとケチをつけることは可能」と書いてあるので、多少は気になったのだと思うが、今となってはよく覚えていない。