消費決定論への疑問
それがどう消費されるかがそれが何であるかを決定する。
文学として書かれるものが文学なのではない。文学として読まれるものが文学なのだ。
文学として読まれるものが文学なのだとすれば、文学として読まれるということ自体は何によって決定されるのだろうか? 「文学として読まれるものとして読むことだ」というのでは無限後退に陥ってしまい、こたえにならない。「文学として書かれたものを読むということだ」というのではいったたん切り捨てたはずのものを密導入することになる。
多くの場合、消費は生産との相関において成立する*1のだから、消費活動だけに着目して消費客体を論じるのには無理があるのではないかと思われる。
「○○として消費する」ということは「○○として生産する」ということとゆるやかな循環構造をなしていて、たとえば文学についていえば、「文学として書く」ということは「文学として読まれるものとして書く」ということであり、逆に「文学として読む」ということは「文学として書かれたものとして読む」ということでもある。この対応関係は完全ではなく、文学として書かれたはずのものが文学として読まれなかったり、文学として書かれなかったものが文学として読まれりすることもあるのだが、このような逸脱事例は、何が文学であるのかの決定権が消費者の側にあるということを示すものではなく*2、単に何が文学であるのかを完全に決定することは不可能であるということを示すものに過ぎないのではないだろうか?