イモ畑問題に近代哲学の認識論はあまり関係ないような気がする
ここで言及されているイモ畑問題そのものについては詳しい情報がないのでコメントを差し控えるが、
逆に考えて、どうせ人間の認識なぞ不完全なもので、世界のあるがままの姿(=本質)には決してたどり着けない以上、むしろわれわれの認識こそが対象物を規定するのである。前者、すなわちあるがまま(存在、sein)の世界と、後者、すなわちわれわれがかくあるべし(当為、sollen)と思い描く世界を切り分けようと主張した。神が死んで久しい現代人にとって、同じものを見てもひとによって見え方が違うことの説明としてはカント先生の説のほうがしっくり来る。
という箇所について2つ疑義を呈しておく。
- 「われわれの認識」という言い回しは間主観性ないし共同主観性を示唆するが、それと「同じものを見てもひとによって見え方が違う」という相対主義とはどのように結びつくのかが不明。
- 「客観/主観」の区別と「存在/当為」の区別は全くレベルが異なるのではないか。
カント哲学を専門的に勉強したことがないので、「そもそもカントはそんなことを言っていない」的な批判はできないし、別にカントが言っていることと違っていても哲学的にみて検討に足る主張であれば構わない*1とも思うのだけど、リンク先の文章はどうも哲学をダシに使っているだけという感じがする。
なお、哲学的には瑣末だ*2が、「19世紀のフッサール」とか「フッサールと同じころニーチェというひともいて」という表現にもやや違和感があった。フッサールの『論理学研究』第1巻が出版されたのは1900年、すなわちニーチェの没年だから、現象学者としてのフッサールは20世紀の人*3だと思うので。
追記(2008/10/17)
別に何の繋がりもないが、なんとなくリンクしてみよう。