祝祭としてのラノサイ杯

これまで2回ほど「消費者運動としてのラノサイ杯」という言葉を用いた*1が、どうも堅い言い方なので「祝祭としてのラノサイ杯」と言い換えておくことにしようと思う。厳密な定義はないが、「社会調査としてのラノサイ杯*2と対比することを意図していることから、だいたいのニュアンスはつかめるものと思う。
で、いろいろ考えてみたのだけど、やはりラノサイ杯は祝祭であるべきだし、祝祭以外のなにものか、たとえば良質なライトノベルを選別して序列化する認定制度であるかのような誤解を極力排するようにしなければならないんじゃないか、と思うようになった。「あるべき」とか「しなければならない」という言い方は押しつけがましくて抵抗があるかもしれないが、単なる内輪のお遊びではなく、外部に開かれてしまった*3以上、もう無邪気ではいられないだろう。それでも異論のある人は適宜緩めの表現に読み替えてもらいたい。
ほとんどの人が認めるとおり、ラノサイ杯は統計的にはデタラメであり、その結果は客観的データとして価値を持たない。いや、この言い方は不正確だ。ラノサイ杯の結果は、ラノサイ杯に参加する人々の傾向を表すものとしては客観的なものなのだから。ここで言いたいのは、ラノサイ杯は、それが対象としているライトノベル作品の相対的または絶対的な品質について何の知見も与えてはくれない、ということだ。これはちょうど血液型性格判断が、血液型性格判断を信じる人の心理構造を分析するのには役に立つが、血液型によって人の性格を判断するという本来の意味においては何の役にも立たないということに似ている。
と、これは余談。
統計的にはデタラメなラノサイ杯に意義を認めうるとすれば、そして実際意義を認めうると信じるわけなのだが*4、それは祝祭としての意義以外にはあり得ない、と思う。本当にほかの可能性がないのかどうか、きっちりと詰め切っていないので、もしかしらまだ何か残り物に福があるかもしれないけれど、その探索は反論者に任せておくことにしよう。ラノサイ杯はかくも多くのライトノベルが出版され、それを多くの人が読み、楽しんでいるということを言祝ぐための祝祭なのだ。投票期間中に各サイト管理人がラノサイ杯にこと寄せて自らの記憶を振り返り、半年間の読書体験を再度思い起こしてあれこれと語る。それこそがラノサイ杯の真髄であって、票数そのものは、途中経過で耳目を集める程度の意味しか持たない。最終集計結果はキャンプファイアの後の残りかすのようなものだ。まあ、のこりかすでも新たに風を吹き込んでもう一度火をおこすことはできる*5ので、全くのゴミではないのだけれど。
ただの残りかすが貴重な成果物であるかのような誤解を避けるための方策については、ここで語ることはしない。今はただラノサイ杯が祝祭であるということを強調するだけに留めておく。
……と、ここまでコミットしてしまったら、次回は参加しなきゃいけないかなぁ、と思わないでもない。でも、これまでも社会調査としてのラノサイ杯には一度も参加したことはないとはいえ、これなんか、祝祭としてのラノサイ杯には事実上参加しているも同然のような気もする。みんながみんな同じことをしたらラノサイ杯は崩壊してしまうけれど、今のところはこんなことをやっている人はほかにいないようなので、たぶん次回も同じやり方で「参加」することになるのではないかと思う。半年先のことはわからないけれど。

*1:ここここで、特に説明なしにフレーズだけ提示した。

*2:これは「統計調査としてのラノサイ杯」と言い換えてもいいかもしれない。

*3:というのは、ラノサイ界隈以外の人にも注目されるようになってしまった、という程度の意味。ラノサイ杯が広く門戸を開いているかどうかは別問題だが、取り立てて論じる気はない。

*4:でなければ、わざわざこんな文章を書いたりはしない。

*5:外部データと組み合わせて分析してみるとか、結果を肴にして何かを語ってみるとか、いろいろな仕方があるだろう。