精神の背骨が自分の内にある人は一本足の蛸になれない

前置き
見出しの「一本足の蛸」はこの日記のことではなくて、その出典である『絶望系 閉じられた世界』に登場するある人物の存在の仕方を指します。

はてなブックマーク - 価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習をみると賛否両論で、どちらかといえばネガティヴなコメントのほうが多いように思うが、それはそれとして、元記事を読んでいちばん気になったのは、その説教の核心部分ではなくて「精神的な背骨」という比喩表現だった。「精神的な背骨」があることは好ましく、ないのは恥ずべきことだという価値観がストレートに表されているのだが、「精神的な」という修飾語を抜きにするとどうなるだろうか、と考えてしまったのだ。
同様の比喩表現には、たとえば「自分の殻に籠もる」というものもある。これは多くの場合、悪い意味に用いられる。逆に「自分の殻を破る」だと、いい意味になる。「背骨」と「殻」を並べてみると、どうも前者がよいもので後者が悪いものだという含みがもとからあって、それが比喩表現に反映されているような気がするのだ。そこに何か釈然としない、もやもやとしたものを感じるのだが、それは一体何なのか、はっきりと述べることが難しい*1
比喩表現をあまりまともに受け取るのは馬鹿馬鹿しく、ときには危険もあるので、あまり深く考えないほうがいいのかもしれない。もう日付も変わってしまったから、今晩はもう寝ることにしよう。朝になれば、こんなもやもやとした気持ちのことはすっかり忘れてしまっているだろう。
とはいえ、このまま忘れ去ってしまうのももったいないような気もするので、こうやってもやもや感を書き記しておくことにした。ぐだぐだな文章でごめんなさい。

*1:「背骨」と「殻」に関する価値観に人間中心主義が反映されているのだとして、それに何か問題でも? そう訊かれると何も言えない。