死者に「表現の自由」はない

たとえばだ。ある日突然警察が、ミロのビーナスはハレンチだから破壊します、とか言い出したら、どうなるだろう?

みんな、「表現の自由」を主張してミロのビーナスを擁護するか?

多分そうはならないね。2千年から人類が受け継いできた貴重な芸術作品になんて野蛮なことをするんだ、と批判するだろう。まず。

もともと価値があると分かりきってるものを擁護するのに、抽象的な「表現の自由」なんてものは必要ないんだよ。

それが、くだらないもの、有害なもの、もしくは一見そう見えるものだからこそ、擁護するのに「表現の自由」が使われるんだ。

ミロのビーナスの作者が誰なのかは知らないけれど、たぶんもう故人だろうと思う。ということは、ミロのビーナスを破壊しても、その作者の「表現の自由」の侵害にはならない。
ミロのビーナスの破壊が、その作者以外の人の「表現の自由」の侵害にあたるという事態は考えられないわけではない。たとえば、ミロのビーナスを祖型とし、それを創作の原動力として今もなお多くの作品が生み出されており、仮にミロのビーナスが破壊されたならを生きる芸術家たちの表現を抑圧することに繋がるような、そんな仮想的状況においては。そのとき、人々はミロのビーナスの破壊に抗議し、「表現の自由」の尊重を声高に訴えることになるだろう。
広く価値が認められている作品を擁護するのに「表現の自由」を持ち出すまでもないということには同意するが、ミロのビーナスの例はたとえ話として不適切だと思われる。