「コミケ」は固有名詞?

同人誌即売会というのはもう全国各地で山のように開催されているわけだけど、それらを指して「コミケ」と呼ぶひとは昔からいる。たとえば90年代後半の福岡県久留米市では、ぼくの高校の同級生が市民会館の小ホールで催されるちっぽけな即売会をそう呼んでいた。

が、「コミケ」すなわち「コミックマーケット」というのは、コミックマーケット準備会主催のもと夏と冬の年2回東京国際展示場で開催されるアレを指す固有名詞(およびその略称)なのである。この2つと「コミケット」は、有限会社コミケットによって商標登録がなされている(商標登録第4224366号、第4471332号、第4709490号)。なので、他の即売会は原則、コミケを名乗ることはできない。

これを読んで「ういろう」*1のことを思い出した。

株式会社ういろうは、ういろうを示す商標として過去に「ういらう」の登録商標があり、株式会社青柳ういろうの登録を認めることで、ういろうの商品の出所に混同のおそれがあると主張しました。つまり、「ういろう」は株式会社ういろうが作ったものを示すことが広く知られていて当たり前のことなのに、青柳ういろうが「ういろう」という名のついた商品を商標登録することで、広く一般に間違いが起きると主張したのです。

この裁判は結局、「ういらう」=ういろうが、株式会社ういろうのものであると、一般的に周知な商標であるとは言えない、つまりういろうは、株式会社ういろうだけが作っているものだとは世間は思っていない、という判断から、株式会社ういろうの訴えを認めないという判決を2001(H13)年3月に東京高裁が下しています。こうして、青柳ういろうの商標はそのまま登録を認められたのです。

【略】

ちなみに他にも、小田原の菓子製造業者「外郎家」が、山口県の梅寿軒「赤間外郎」の商標登録を巡って、特許庁を相手に起こした裁判もあり、こちらは最高裁まで争われました。赤間外郎の登録を認めた特許庁が「ういろうは、かつては外郎家の製造した菓子を示す固有名詞だったが、時代とともに菓子の一種を意味する普通名称となり、審判請求人の請求に理由はなく、登録を維持する。」とした審決の取消を求めたものでした。しかしやはり棄却され、赤間外郎の登録は維持されました。外郎家は株式会社ういろうの経営者です。これらの裁判から、小田原の外郎家は、名古屋や山口のういろうメーカーが、ういろうという名の商標を登録することに、「この偽者が」と腹を立てているということがわかります。

コミケ」は「ういろう」より歴史が浅く、この略称が成立して伝播した過程を知る人が現存するため、もし「ういろう」と同様の裁判が戦われたなら、勝敗の行方がどうなるかはわからないが、「コミケ」が商標登録されているということから直ちにそれが固有名詞であるということが帰結するわけではない*2のは言うまでもない。
固有名詞とそうでないものとの区別はなかなか難しい。典型的な固有名詞である人名や地名の場合は、名前が端的にある特定の人やある特定の土地を指していることが直観的に見て取れるため判定できるが、同じ製法で何度も継続反復して作られる菓子や、同じ主催者が何度も継続反復して開催するイベントを、人はある特定のモノとして把握しているのかどうかは議論の余地があるだろう。
それはともかく。
「○○富士」*3という異称をもつ山は全国各地に見られるが、「富士」が普通名詞だと思う人は稀だろう。「○○富士」は日本でただ一つ、文字通り「不二」の存在である富士山にあやかって名付けられただけで、「富士」が一般に勇壮で地域を代表する山という意味の普通名詞ではないことは明らかだ。
もし「○○コミケ」も「○○富士」と同様であるなら話は簡単だが、それぞれのイベントの主催者の意図はともあれ、参加者ひとりひとりが、日本でただひとつのコミックマーケットにあやかった命名だという認識を持っているかどうかは甚だ疑問だ。「○○コミケ」という名称でない同人誌即売会についても「昨日、近所のコミケに行ってきた」というような言い回しがごく普通に見られるのだから。これは単なる誤用として無視すべき用例なのか、それとも固有名詞の「コミックマーケット」の省略形に由来する一般名詞「コミケ」があるとみるべきなのか迷う*4ところだ。
ただ、少なくとも、日本中どこを探しても、有明埠頭で年二回開催されるあのイベント以外に「コミックマーケット」という名称のイベントも、それを名称の一部に含むイベントもない*5ということ、そして「昨日、近所のコミックマーケットに行ってきた」という言い回しは極めて不自然なものであるということ、従って、「コミックマーケット」と「コミケ」は同列には論じることができない*6ということは確かだと思われる。

参考

古参参加者層では「コミケ」の普通名詞化には抵抗を感じる者も多いが同人誌即売会に関わる者達にとってコミックマーケットの影響力は大きく、「コミックマーケット=同人誌即売会の模範」とされることが多い。「漫画・アニメを主体とした同人誌の即売会」を表す一般的な名称は他に存在しないため、普通名詞化はやむを得ないという見方もある。

*1:同名の薬と菓子が存在するが、ここで取り上げるのは菓子のほう。

*2:もちろん、有村悠氏はそのようなことを主張しているわけではなく、「コミケ」が固有名詞であるということの傍証としてそれが商標であることを挙げているだけだと思う。

*3:当初、「○○銀座」を例として説明しようと思っていたが、よく考えれば「銀座」はもともと銀貨を鋳造する組織に与えられた名称であり、それが転じて東京の地名となったというややこしい経緯があるため、本文の例を差し替えることにした。

*4:本文中2回用いた「べき」は「コミケ」という語の使い方の規範ではなく、「コミケ」という語の使い方の記述の規範を指していることに注意。……と書いても誤解する人は誤解するんだろうなぁ。

*5:と書いたところでコミケ分裂事件のことを思い出したが、20年近く前のことだし、不確かな情報しか持っていないので何ともコメントしようがない。

*6:話がややこしくなるので本文では触れなかったが、「コミケット」は略称という点では「コミケ」と共通しているが、固有名詞として用いられているかどうかを考えると、正式名称の「コミックマーケット」とほぼ同じだと考えて差し支えないのではないかと思う。