省略形とは何か?

そして少し怖いことだけど、「ぼくは美少女だ」というのと「ぼくは自分のことを美少女だと思っている」というのは、実際には非常に近い。というより、前者は後者の省略形に他ならない。どんなものごとであっても、それが人間の思考である限りは、「……と、わたしは思っている」が最後に付与されてしまう(この文章も例外ではない)。客観、などというものは存在せず、すべては主観なのだ。ぼくはみちアキだ。しかし、より正確には、ぼくは自分のことをみちアキだと思っている何かだ。この何かが、昨日と今日と明日とで同じである保証は、特にない。もし日々入れ替わっていたとしても、それがそれの記憶を基に「ぼくはみちアキだ」と考えるのなら、単にそれが真で、それ以上はなにもない。

客観があるのかどうか、とか、すべてが主観なのかどうか、などといった問いは、一見すると哲学的で深遠なもののように感じられるかもしれない。だが、本当に興味深い問いは別のところにある。それはたとえば、ある表現が別の表現の省略形であるというのはどういうことであり省略形でないというのはどういうことなのか、というような問いだ。
「前者は後者の省略形に他ならない」とはいったいどういうことなのか?
それは、「前者は後者の省略形に他ならない」と思っているということなのだろうか?
もしそうだとして、そのとき実際のところ何が思われているのだろうか?

続き

省略形とは何なのか。この問いはある人にとっては瑣末で馬鹿馬鹿しいものだと思われるだろうし、別の人にとっては答えを出せる見込みがないほどの難問だと感じられるかもしれない。前者の人々は、省略形が何であるのかは既に了解済みの事であり自明なのだからことさら論じたり考えを巡らせたりする必要がない、と考える。後者の人々は、省略形についてどのような了解事があったとしてもそれらは単なる思い込みに過ぎず省略形の実相に迫っているという保証がない、と考えるだろう。それぞれの考え方はそれなりにもっともであり、頭ごなしに否定することはない。だが、我々は差しあたり両者から距離を置いて、省略形についての了解内容を調べてみることにしたい。
まず確かなことは、省略形は常に何ものかの省略形だということだ。何ものの省略形であるということもなく、ただ単に省略形であるようなもの、端的な省略形とか純粋な省略形とか、そういったものは決してない。ある省略形は何ものかを省略したものであり、別のものを省略したものではない。ここには一種の関係を見て取ることができる。
では、省略形を一方の項とする、この関係――簡単のために、この関係のことを「省略関係」と呼ぶことにする――はいったいどのような性格をもつのだろうか。いくつかの特徴を挙げることが可能だ。

  1. あるものが、それ自体の省略形であるということは決してない。
  2. あるものが別のあるものの省略形であるならば、逆に、その別のあるものが元のあるものの省略形であるということは決してない。
  3. あるものが別のあるものの省略形であり、かつ、その別のあるものがさらに別のあるものの省略形であるならば、元のあるものはそのさらに別のあるものの省略形でもある。

1と2については説明の必要はないだろうが、3は例を挙げたほうが理解しやすいかもしれない。たとえば、もし仮に「コミケ」が「コミケット」の省略形であり、「コミケット」が「コミックマーケット」の省略形であるならば、「コミケ」は「コミックマーケット」の省略形でもある、ということを3は主張している。なお、この例は便宜上のものであり、本当に「コミケ」が「コミケット」の省略形なのかどうかは別問題であることに留意されたい。もしかすると、「コミケ」は「コミックマーケット」の直接の省略形であり、両者の間に「コミケット」が介在していないということも考えられる。
さて、省略関係の形式的な特徴としては概ね上述のとおりだとしても、それだけで省略関係の特性を十分に解明したことにはならない。省略形と、それと対になる項の間に特徴的なことをいくつか指摘しておこう。

  1. あるものが別のあるものの省略形であるならば、あるものに対してその別のあるものは常に先行する。
  2. あるものが別のあるものの省略形であるならば、あるものは常にその別のあるものに比べて常に短い。
  3. あるものが別のあるものの省略形であるならば、あるものに含まれる部分のすべてがその別のあるものから採られている。

ここで挙げた3つの特徴のうち、1と2は短縮形一般に成り立つが、3は必ずしもそうではない。すべての省略形は短縮形であるが、すべての短縮形が省略形というわけではない。言い換えるなら、短縮形であっても省略形ではないものが存在する。たとえば、ある種の電話機は短縮番号を登録することができるが、登録された番号は元の電話番号の短縮形ではあっても省略形とは言い難い。一方、電話番号から市外局番を除いたものは、元の番号の省略形とみなすことが可能だろう。つまり、省略形とは元の何ものかから一部を採り、他の部分を捨て去ったものである。
このことから容易に言えることがある。それは、部分を持たないものには省略形がないということだ。ある程度の長さをもち、複数の部分から構成されているものについて、そこから一部を採ることによって省略形がつくり出されるのだ。
ところで、何ものかが長さをもつということ、そしてそこから一部を採ることによって省略形をつくることが可能であるという条件は、省略形があり得る存在者の領域に大きな制限をかけることになろう。たとえば、色には省略形はない。なぜなら色には長さもなければ部分もないからだ。では、色見本はどうか。ある一定の長さと幅をもった色見本から一部を切り出せば、それは元の色見本の省略形となるのだろうか。
ならない。
元の色見本とそこから切り出された色見本の断片との関係が省略関係でないことは、ほぼ自明であるように思われる。そこには何か重要なものが欠けている。
何か?
実はこれまでわざと伏せておいたのだが、すべての省略形はある特殊なカテゴリーに含まれる。そのカテゴリーとは広義の言語である。「コミケ」は言うまでもなく言語表現である。電話番号は通常ことばだとはみなされないが、広義の言語のうちに含めても差し支えないだろう。だが、色見本は言語ではない。色見本は色を例示するという機能をもち、その意味では記号と言ってもいいのだが、しかし言語ではない。
省略形を特徴づける広義の言語のうちにどのようなものが含まれ、どのようなものが含まれないのかを明らかにするのはなかなか骨の折れる作業だと思われる。今は省略形についての素描に徹することとし、広義の言語には、それ以外の記号にはない構造がある、とだけ言っておくことにしよう。
ここまで述べたことはすべて、ごくふつうの人々が特に意識することなく受け入れている省略形についての了解事をかなり回りくどい仕方で書き立てたものだ。若干の異論はあり得るかもしれないが、概ね同意していただけるだろう。では、この共通の了解事ないし同意事項というものはいったいどういう素性のものなのだろうか。それは実はかりそめの虚妄に過ぎず、ただそう思われているだけということなのだろうか。それとも、それぞれの人々の思いとは別に何らかの基盤が存在するのだろうか。
どちらの考えもそれなりにもっともであり、頭ごなしに否定することはない。だが、我々はやはり差しあたり両者から距離を置いて、中間の道を探りたい。省略形にかかる了解事は単なる無根拠な思い込みではないし、かといって、何か神秘的な確固たる土台に支えられているというわけでもない。省略形とは、我々の言語生活の中に根ざしている、一種の制度的事実なのだ。
……いささか筆が滑って先走ってしまったようだ。これはひとつの考えに過ぎず、他の考え方を論破するに足るような論拠を示すまでには至っていない。だが、やや飛躍があるとはいえ、このような考えを提案することくらいはゆるされよう。
提案に乗るもよし、退けるもまたよし。