いまさらながら『涼宮ハルヒの消失』をみた、という話

日ごろ仕事が忙しくて土日でもなかなかまとまった時間がとれないのだが、今日はなぜか急に仕事をしなくてもいいことになったので、長らく懸案だった映画『涼宮ハルヒの消失』鑑賞のため映画館に向かった。
平日の朝一ということもあり観客はわずか9人だったが、これはまあ予想の範囲内。というか9人もいたことのほうが驚きだ。公開から4ヶ月以上も経っているというのに。さすがに「なんで今頃みにきたんですか?」とたずねることもできず、おとなしく着席した。
凄く長い映画だという話は知っていたので、途中でトイレに行かなくてすむように前の晩から水分補給は控えてあった。喉が渇いてからからになると不快なのでのど飴を用意したが、そのせいで逆に喉が痛くなり、上映中に何度か咳き込んでしまった。申し訳ないことをした。
ストーリーは原作どおりで、台詞も若干の追加を除けばほぼ原作に書かれているものと同じだと聞いていたが、その原作を読んだのは大昔のことなので、もはやかすかにしか覚えていない。原作が発売されたのは2004年夏ということだが、たぶん発売後間もない時期に読んでいるはずなので、今から6年近くも前のことだ。ハルヒの「消失」の犯人の正体はもちろん覚えていたけれど、犯人の仕掛けを打ち破るプロセスが忘却の彼方だったのも無理はない。
ストーリーに関する記憶はおぼろげだが、背景に関する記憶はそれに比べればややましで、「ああ、こんな景色があったなぁ」と思うシーンがいくつもあった。長門有希のマンション(の外観のモデルになった建物)の前を通ったのは確か2006年の春だった。それでも4年前のことなのだから月日が流れるのは早いものだ。
SF的ロジックにはいくつか疑問点もあった*1が、中盤以降の展開を額面どおりに受け止めればもろにタイムパラドックスを惹き起こすものなので、細かな矛盾をあげつらっても仕方がないだろう。むしろ、主人公キョンの過剰なまでのモノローグと、ヒロイン長門有希*2のわずかな表情の変化で、両者の心理の揺れ動きを表現している技術にこそ目を向けるべきだろう。
しかし、実際にはそのような点よりも、漠然とした記憶とともに立ち上がってくる、懐かしさのほうが印象に残っている。今はもう過ぎ去ってしまった時を振り返るよすがとなる映画だと思った。
誤解のないように言い添えておくと、自らの高校時代を懐かしんだということでは全くない。そんな昔のことは懐かしく思うこともできないほど忘れてしまった。そうではなくて、上にも書いたとおり、原作を読んだ頃、あるいは舞台訪問した頃に対する懐かしさだ。そして、あまりにも個人的なことなので具体的には書かないが2002年から2003年頃の経験に対する懐かしさでもある。まだ10年も経っていないのに、なんと大きく世界が変わってしまったことか!
ほろ苦い郷愁を感じながら、約2時間40分の映画鑑賞を終えて映画館を後にした。至福のひとときだった。そして、明日からはまた、このすっかり変わってしまった世界で、ひとり取り残されて生きていくことになる。キョンとは違って、世界を修正しようなどという気はさらさらないのだけれど、全くさびしくないと言ってしまえばそれもまた嘘になるだろう。

*1:たとえば、記憶の変更は1年前からということだが、そうすると光陽園学院が男女共学になってからまだ1年経っていないことになり、偏差値で進学または転校する学校を決めたという発言と矛盾するのではないか、とか。

*2:と言い切ってしまおう。