アニメーションと奇術

スフィンクス」と呼ばれる有名な舞台奇術がある。

机の上に旅行カバンを置き、それを開けると人間の頭部が出現する(首から下は無い)。その人間は最初は目をつむっているが、合図とともに目を開き、詩を朗読したりする。最後に箱に戻すと首は消失する。1865年10月16日にロンドンのエジプシャン・ホールでストダー大佐が初演した。初演の前から『タイムズ』誌には広告が載せられていた。1877年頃には日本に伝来して横浜で演じられた。

古典的な奇術なので、トリックはいまや周知のものだが、ネタを知っていても実際に見てみるとなかなか面白い。まだ生では見たことがないが、以前テレビのマジック番組で紹介しているのを見て感心した記憶がある。
で、ちょっと変なことを考えた。
奇術を演じている情景を撮影して放映したなら、視聴者はそれを奇術だと受け止めるだろう。だが、同じ情景をアニメーションで再現したなら、もはやそれは奇術ではない。なぜ、そうなるのか?
アニメは原理的には目で見える情景なら何でも見せることができるので、「不可能な情景」というものはない。不可能がないところには「不可能を可能にする」ということもない。だからアニメでは奇術ができないのだ、というのがひとつの考え方だ。
しかし、奇術は「不可能な情景」を現出させるものばかりではない。たとえば、カードマジックはどうか。それもアニメで再現したときには奇術とは呼べないだろう。
おそらく、アニメに関する了解事項の何かが、奇術を成立せしめる条件の何かに抵触しているのだろうと思うが、それを一言で言い表すのは難しい。基本的にアニメはフィクションであるということ、フィクションでないとしても少なくとも実況ではないということが大きな要因なのだろうと想像はできるのだが*1
コンピュータグラフィックスの発展に伴い、従来の「実写/アニメ」という区別は次第に過去のものになりつつある。アニメでは奇術はできないが実写ではできる、というような単純な議論はもう不可能なのかもしれない。
……ああ、何を言いたいのかわけがわからない。悪文の見本になってしまった。ごめんなさい。

*1:ところで、推理小説は時に「文字で書いた奇術」と呼ばれるが、他方で推理小説と奇術の間には大きな違いがあることはよく認識されている。種明かしをするかどうかが推理小説と奇術の間の最も大きな違いだという意見が多いが、果たしてそうなのか? 推理小説は当然のことながら小説であり、小説は基本的にフィクションだということ、ノンフィクション小説であっても、それが扱う出来事を同時に書き表しているわけではなく、事後的に取りまとめたものであるということ。これらが大きいのではないか。