部分的批判と批判者の立場の表明について

愚劣な反論をするくらいなら名案がないことを認めたほうがましだ - 一本足の蛸で、シートン氏のかなり長い文章たったひとつの文だけを取り上げて、「愚劣な反論」と評し、同じ文章*1その他の箇所には全く言及しなかった。新エネルギー事情に通じていない素人がむやみに口出ししても仕方がないだろう、と思ったからだ。従って、シートン氏の議論の大まかな枠組みについては賛否は表明していない。
「自分自身の立場を明確に明かさずに他人の意見を批判するのは卑怯だ」と考える人が相当数いることは知っているけれど、そのような考えには与しない。一連の議論の中に、明らかにそれだけ取り出してみておかしいと思われる要素があるなら、それだけ取り出して批判すればいいのであって、その際、自分自身の立場などどうでもいい……と断言してしまうと、「いや、どういう立場をとるかによって、事実認識の枠組みが違ってくるだろうし、場合によっては用語法も異なるだろうから、立場を明確にしない批判は読者を混乱させるもとになる」という反論も予想される。
まあ、そういうことがないとは言えない。
たとえば、ともに19世紀末から201世紀前半にかけて活動した哲学者であるムーアとレーニンは「観念論」を批判したが、前者は20世紀の分析哲学の祖のひとりで英国経験論の伝統からの影響を受けているのに対し、後者はマルクスの哲学を受けて後に「マルクス・レーニン主義」と呼ばれることになる思想体系を築いた人物だから、同じ「観念論」批判でも全然別物となっている。その違いを知らずに両者の議論を同列に捉えてしまったら*2、ひどく混乱してしまうことだろう。
とはいえ、抽象概念が飛び交い、高度に複雑な概念操作を行う哲学の世界と、「風力発電施設におけるバードストライクにどう対処すべきか」というような問題とは、やはり相当レベルが異なっているとみるのが自然ではないだろうか。とりわけ、バードストライク対策として猛禽類の映像や音声を流す、などというアホな案を批判するのに、原発推進派だとか反対派だとか、原発白樺派や原発耽美派などという立場の違いはほとんど無関係だといえるだろう。強いていえば、生物多様性についてどう考えるのかという立場の違いや、野生動物に対して「保護」と「愛護」のどちらの立場をとるのかという違い*3によって、批判のニュアンスが若干違ってくるかもしれないが……。
というわけで、はてなブックマーク - 愚劣な反論をするくらいなら名案がないことを認めたほうがましだ - 一本足の蛸を見ても、「お前自身は原発についてどう考えるのか、それを隠したままで批判するのはアンフェアだ」などという類のコメントは幸いひとつもなくてほっとしているのだが、それはそうとしてやっぱり原発に対してはそろそろなんらかのまとまった意見を持つべきだろうとは思っている。
正直にいえば、先の大震災以前は、シートン氏の言うところの「原子力消極的賛成派」に近い考えだった。もともと原発は嫌いなのだけど、今すぐにやめても代わりはないし、やめられないよなぁ、と考えていた。だが、震災以前に感じていた以上に原発が脆くて危険なものだと思い知らされた今、果たして代替エネルギーの有無で原発を存廃を論じていいのだろうかという疑問を抱くようになってきた。
原発を即刻停止せよ! だが、代替エネルギーはない」と言ったら非難轟々だろう。「対案なき批判は無責任だ」と言われかねない。ただ、対案がなくても批判しないといけない場合だってあるのではないか、と前々から思っていた。
この問題については次のリンク先が参考になるだろう。

で、原発の場合、今すぐ日本中の原子炉を全部停止してしまったら、短期的にはかなりの電力不足が予想される。風力発電云々は中長期的な話であって、当座の今年の夏の電力需要にどう対応するかという問題とは切り離して考えるべきだろう*4。たぶん、死人が出るレベルだろう。
「しかし、やるのだ。どうせ次に大地震や大津波が来て原発が止まったなら同じことだ。それなら、いつ起こるかわからない自動停止を待つのではなく、今、人間の手で原発をきっちりと停止して、やれるだけのことを精一杯やるべきなのだ。その結果、多少の犠牲が出てもやむを得ない
実を言えば、今の考えはこれにいちばん近い。しかし、こう断言できる勇気がまだない*5。思うに、作為と不作為の間の非対称性が、こういった「割り切った判断」にためらいを感じる理由なのだろう。
事態は、トロッコ問題に似ている。だが、この架空の事例では無視されている確率的要因が、事態をより複雑なものにしている。
確率の話が出たついでに、確率論に迷い込む前に - dongfang99の日記にリンク。本題についての主張はクリアだが、原発政策をどうすべきかという話題になるとぐだぐだになってしまっているのが、まるで鏡に映した自分自身の姿を見ているようだと思った。

*1:とその前に書かれた原子力消極的賛成派の方々へ その1 - シートン俗物記

*2:ムーアとレーニンをごっちゃにする人などたぶんいないと思うが……。いやヘーゲルとフレーゲとゲーデルの区別がつかない人もいるのだから、世間というものをあなどってはいけない。

*3:「保護」と「愛護」(と「保全」と「保存」) - 一本足の蛸を参照のこと。

*4:よって、バードストライク問題も「原発を今すぐ停止すべきか否か」という設問のもとでは、たいした重みを持たないことになる。

*5:従って、地の文ではなく鉤括弧に括って提示した。