人道的な話

とりとめのない話をしようと思う。

1

「人の道」ないし「人道」という言葉はふつう比喩的に用いられる。その用法のほうがあまりにも一般化しているため、もはやそれが比喩だということを意識することすらないほどだ。
だが、「人道橋」のように、比喩的ではない「人道」の用法もわずかに残っている。自動車が走れない歩行者専用の橋のことだ。「車道」に対して「歩道」という言葉があるのだから「歩道橋」でもよさそうなものだが、それでは意味が異なってしまう。歩道橋は車道を渡るための橋だが、人道橋は川を渡るための橋だ。

2

人の道には大きく2通りのものがある。ひとつは、人が歩くことによって道となったもので、もうひとつは、道ができることで人が歩くようになったものだ。この区別はあまり厳密ではないかもしれない。歩くということと道であるということは相互に関わりあっており、どちらが先でどちらが後なのかを明確に指摘できない場合もあるだろうから。だが、ともあれ2通りの人の道を考えることは可能だ。
これに対して、たとえばけもの道は1通りしかない。けものが草むらや山の中を歩くことによって次第に道ができるのがけもの道だ。けもの道を建設することによって、そこをけものが歩くようになるということはない。なぜ、そういうことがないかといえば、そのような道は「けもの道」とは呼ばないことになっているからだ。
逆の例としては、魚道を挙げることができようか。もっとも魚道は道ではないという考える人もいるだろう。少なくとも道路ではない。ならば高速道路でもよい。自動車が高速で走りぬけた痕跡が次第に高速道路になっていく、ということはなくて、必ず先に高速道路が建設されて、その後に自動車が走りぬけるのだ。

3

先に、「人の道」「人道」は比喩的に用いられると書いた。次に、人の道には2通りのものがある、ということを比喩ではない、ほんとうの人の道について述べた。では、比喩的な意味での「人の道/人道」には2通りのものがあるのだろうか? これはなかなか難しい問題だ。
ある考え方によれば、人が自然に無理なく行ってきた事柄が積み重なって、そこに次第に「人道」が生まれる。人道的であるということは、何も難しいことや無理なことを行うというわけではなく、ごく当たり前のことなのだ、と。
別の考え方によれば、「人道」とはなんらかの仕方で作り上げられた決まりごとのようなものだ。それが作られる前にはそこには何もない。それが作り上げられることによって、人の行うべきこと、行うべきではないことが決まるのだ、と。

5

「4」は「死」に通じるので飛ばしたが、ひとつ飛ばした先に何かがあるわけではないので、ひとまずこれにておしまい。