蒸発
人がある日突然忽然と姿を消すことを俗に「蒸発」という。だが、最近は単に「失踪」と呼ぶことが多いように思う。「蒸発」が廃れたというわけではないだろうが、何となく昭和の匂いが漂う言い回しだ。
「蒸発」を失踪の意味で用いた例がどこまで遡れるのかは知らないが、ためしに青空文庫収録作品について調べてみると、それらしい用例が2つ見つかった。どちらも戦前に発表された探偵小説だ。
「行っておしまいになりました。夜逃げをなさいました。蒸発をなさいました」とイワンは滑稽な仏蘭西(フランス)語で答えた。「あの方の帽子も外套もございませんのです。私は何か痕跡がないかと表に走り出てみますと、私は偉いものを見つけましてございます」
『巨大な指紋を遺(のこ)して犯人蒸発! 推察するに相当大男ならん――』などという新聞紙のセンセイショナルなタイトルまでもう頭の中にちかちかとひらめくのでした。
別にチェスタートン本人が「蒸発」という言葉を用いて小説を書いたわけではなく、本人のあずかり知らぬところ*1で直木三十五がそう訳しただけだが、それにしてもチェスタートンと蘭郁二郎という取り合わせは面白い。
逆に言えば、青空文庫で「蒸発」を失踪の意味で用いた用例がこの2つ以外に見つからない*2ということは、戦前にはこの用法は探偵小説の文脈にほぼ限られていたということを意味するのではないか、と考えてみたのだが、青空文庫に収録されている文章には大きな偏りがあるため、確かなことはいえない。きちんと実証するなら、戦前の新聞で失踪事件を扱った記事の書きぶりを調査する必要があるが、さすがにそこまで手をかけるつもりはない。
さて、ミステリ愛好家なら、「蒸発」という言葉を見聞きして真っ先に思い浮かべる作品があるはずだ。日本推理作家協会賞を受賞した夏樹静子の初期の代表作『蒸発』だ。
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ちなみに、夏樹静子の『蒸発』の数年前には、今村昌平監督の映画『人間蒸発』が公開されている。
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さて、このたび、人間の「蒸発」を取り上げてみたのは、特に何か重大な理由があったからだというわけではなくて、あるとき「人体って固体なのに『蒸発』という喩えはおかしいよなぁ。むしろ『昇華』と呼ぶべきじゃないだろうか」と、全くもってどうでもいいことを思いついたからだ。もちろん、人体の半分以上は水分でできているということは知っているが、だからといって人体が液体だとは言えないだろう。
で、どうでもいい思いつきはさらに続く。「蒸発」にせよ「昇華」にせよ、人間の身体が気化するということは現実にあり得るのだろうか? ああ、そういえば『ガス人間第1号』という映画があった。でも、あれは実録ものではなかったように思う。仮に実録ものだとしても、現実にあった話ではないだろう。
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さらに、どんどんどうでもいい思いつきは続いていくのだが、それにつれて不謹慎さもどんどん増していくことになる。原爆といえば核、核といえば時節柄原発を連想するわけで、そこに人間の蒸発を絡めて考えることと言えば……まあ、自粛したほうがいいだろう。
全くまとまりはないけれど、今日のところはこれでおしまい。