原発と生物多様性

反原発を 分断する優生思想。 - hituziのブログじゃがー経由で、ありのままの生命を否定する原発に反対を読んで、少し驚いた。

講師の平林浩先生(和光小)は、遺伝子のメカニズムについて生物学的な立場から詳しく話をしたが、それによれば、生物の遺伝子の何割かは病気や「障害」を引き起こす「不利な遺伝子」で、遺伝子の組み合わせにより、一定の割合で必ず病気や「障害」をもつ生物が生まれる。だからといって「不利な遺伝子」を意図的に除去しようとすると、その種は滅びてしまうそうだ。「多様性こそ、種の存続の条件である」と平林先生や強調する。 つまり、どんな生物の中にも一定の割合で病気や「障害」が存在しており、それがその種が健康な証拠なのだ。人間の社会は病気や「障害」を極端に嫌うが、人類の存続のためには病気も「障害」も必要不可欠なのだ。

【略】

平林先生の話を聞いて以来、私は放射能汚染の恐さは、「障害者が生まれること」それ自体ではなく、「障害者の割合が極端にふえたり減ったりして、多様性によって保たれている生態系のバランスがくずれ、生命の存続が危うくなること」だと思うようになった。 そしてさらに考えを進めていったとき、ふと胎児診断のことに思いがいった。羊水チェックにより、胎児のうちに「障害児か否か」を判別し、障害児とわかれば中絶をすすめる---私はこれを「生命の選別」であり「優生思想の具体的な表れ」と思っているが、別の言い方をすれば、「多様性の否定」「ありのままの生命の否定」ともいえるのではないだろうか。

何に驚いたかというと、この文章は1989年に書かれたものだということだ。もちろん「生物多様性」という言葉は使われていない*1が、ここで述べられているのは、まさに生物多様性という考え方*2を背景にしている。1989年当時、既にこのような考え方を社会問題に応用していた人がいたのだということに驚いたわけだ。
ところで、

わたしは、「生態系のバランス」という論点は不必要だと おもう。余分な論点だと おもう。

堤さんは、「「ありのままの生命」を否定する原発に反対」で、放射線という要因によって「障害者の割合が極端にふえたり減ったりして、多様性によって保たれている生態系のバランスがくずれ、生命の存続が危うくなる」ということが問題だと のべている。

しかし、この社会では さまざまな社会的、環境的な要因によって生態系のバランスは つねに変化している。それは おそれることではなく、そういうものなのだ。

このコメントは少し素朴すぎるように思う。
この文脈で「生態系のバランス」という論点を持ち出すことで話がややこしくなってしまう*3ので、むしろ出さないほうがより明快な議論が可能になる、というのならわからないでもないのだが、この書き方では「さまざまな社会的、環境的な要因によって生態系のバランスは つねに変化している」という大雑把な理解の中に原発が埋もれてしまうのではないだろうか? 通常の社会的、環境的な要因で生態系のバランスが変化するのと、原発がもたらす生態系のバランスの変化を同じように「おそれることではなく、そういうもの」と一括してしまうのは、かなりまずいことなのではないかと思う。

*1:この言葉がいつ生まれたのかは定かではないが、英語の「biodiversity」は1985年に作られた語なので、おそらく1989年の日本で「生物多様性」という語を用いる人はごく一部の学者だけだったのではないかと思われる。

*2:細かくみると、種の存続の条件としての多様性と、生態系のバランスを保つ多様性とでは、同じ「多様性」という言葉で言い表されていてもレベルが異なる事柄なので、少し引っかかりを感じたが、それはまた別の話。

*3:生物多様性と、ひとりひとりの人間の生きる権利との関係というのは途方もなく大きくて難しい問題なので、こういう論点を議論に入れてしまうと、原発という当座の話題がすっ飛んでしまう恐れがある。