「「人柱」という呪術」という呪術

はてなブックマーク - Twitter / ynabe39: 「事故で人が死ぬと横断歩道と信号ができる」。 ...でも「人柱」という語を使っている人が複数いるが、これはいったいどういう喩えなのだろうか?

人柱(ひとばしら)とは、堤や橋、城といった大規模な建築物が水害や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、生きながらにして建築物やその近傍に埋められた人身御供のことである。

横断歩道・信号を堤・橋・城などの大規模な建築物に、交通事故の犠牲者を建築物の人身御供に喩えているのだろうかと思ったのだが、この解釈では、横断歩道や信号が破壊されないことを祈願するという目的があることになってしまう。この解釈はおかしい。
Wikipediaの「人柱」の項には上で引用したほか、少しずつニュアンスの違うさまざまな人柱の例が挙げられているが、それらに共通しているのは「他人のために犠牲になる」ということで、その共通点に着目すると、交通事故死の後、横断歩道や信号などがつくられて事故防止に資するとすれば、なるほどそれは「人柱」に喩えられられるべきことだろう、と思った。
ところで、パソコン用語としての「人柱」などは別として、本来の人柱は呪術的である。人柱は災厄を防止するという目的のための手段だが、その手段と目的の間には科学的にみれば因果関係はない。
それに対して、交通事故の場合の「人柱」は、交通安全施設の設置による危険性の減少という事態を目的とした手段ではないが、両者の間には因果関係が存在すると考えられる。つまり、目的-手段関係と因果関係の有無が、本来の人柱とは逆になっている。
では、「人柱」の喩えは当を得ていないということになるだろうか? 必ずしもそうとは限らない。
交通事故で命を奪われるということは、不運な出来事だ。なぜそのような事故が生じたのかという原因を追究することは可能だが、そのような探究は「なぜ死ななければならなかったのか?」という問いにこたえるものではない。「不運」という言葉は、「なぜ?」に答えがないということ、すなわち他の事象との意味連関が存在しないことを端的に示している。
「人柱」の喩えは、そこに意味連関を導入する。交通事故死はただの無駄死にではなく、他人のための犠牲と捉えられるのだ。交通事故死が発生し、その後、そこに横断歩道や信号が設置されるという因果関係は、擬似的な目的-手段関係へと転化する。これはある意味では呪術的な行為ではないだろうか?
「死者が出るまで交通安全施設を設置しないのは本末転倒だ」と非難する人もいれば、「限りある資源の配分に優先順位をつけるためには、事故死が発生した場所を重視するのはやむをえない」と擁護する人もいるが、いずれにせよ「人柱」の喩えに言及することで、呪術に共同参加していると言えるのではないだろうか。

追記(2012/04/26)

この記事は4/25付になっているが、書いている間に日付が変わったのに日付を修正するのを忘れたもので、正しくは4/26の0時23分にアップしたものだ。そういうことを気にする人はあまりいないと思うが、引用・言及したツイートより前に書かれているかのような見かけを呈しているので、念のため付記しておく次第。