シロツメクサの季節に類は友を呼ぶということ

クローバー・レイン (一般書)

クローバー・レイン (一般書)

先ほど『クローバー・レイン (一般書)』を読んだ。なんだよ、この「(一般書)」というのは。同題の特殊書があるのか?
まあいい。
『クローバー・レイン』は次のような一文から始まる。

子どもの頃、小説を書くのは特別な人だと思っていた。

うまい出だしだ。
主人公は老舗の大手出版社、千石社に勤務する若手編集者、工藤彰彦という男だ。この千石社というのは同じ作者の『プリティが多すぎる』の舞台でもあるそうだが、そちらは未読。『クローバー・レイン』を読んだ限りだと、何となく講談社っぽい感じがしたのだが、別に出版業界事情に通じているわけではないので、千石社のモデルが講談社かどうかは知らない。
『クローバー・レイン』は工藤彰彦が落ち目の作家の小説『シロツメクサの頃』を出版するために悪戦苦闘する物語だ。ミステリではない。あ、だから「(一般書)」なのか!
まあいい。
先に引用した冒頭の一文がその後の小説の展開にどのような形で関わってくるのかについては、『クローパー・レイン』を読んだ人が個々に考えて判断すればいいことだ。ただ、小説を書くのは特別な人かどうかについて、若干私見を述べておく。
思うに、ただ小説を書くだけの人はさほど特別ではない。同人誌にもネット上にも、ふつうの人が書いた小説がごろごろ転がっている。だが、商業媒体で小説を発表している人はちょっと違う。プロないしセミプロの小説家はやはり特別な人と言わざるを得ない。いや、特殊な人と呼ぶほうが適切かもしれない。ともあれ、ふつうの人ではない。
彼もしくは彼女が書く小説の内容がふつうではないという意味ではない。商業小説と非商業小説との間には概して内容の違いがある*1のは事実だが、職業作家と同人作家の違いは小説の内容にではなく、むしろ小説を通じて社会と関わる仕方に求められるだろう。
このあたりを突っ込んで考察してみると面白いのだが、『クローパー・レイン』の感想から遠ざかってしまうことになるのでやめておこう。
さて、『クローパー・レイン』の感想だが……うーん、直接書くより、この小説を読んで連想した別の小説について書くほうがいいような気がする。
その「別の小説」とは、これだ。

夏の魔法

夏の魔法

今から5年前に読んだ小説だ。なぜ読んだかといえば、この感想文を書くためだった。そこでも書いたのだが、本岡類という作家については名前と過去の作品のタイトルくらいしか知らなかった。『夏の魔法』は面白い小説だったが、続けて他の作品に手を伸ばそうという気にはならなかったし、仮にそのような気になったとしても、同じ作者の過去の作品はミステリばかりで、『夏の魔法』のような小説はほかになかった。
今、本岡類 - Wikipediaで調べてみると、『夏の魔法』の後、2007年8月に『愛の挨拶』という小説が出ている。池上冬樹の書評を見つけたので読んでみると、これも面白そうだ。だが、刊行当時にどこかで話題になっているのを見聞きした記憶はない。
その次に出たのは『介護現場は、なぜ辛いのか―特養老人ホームの終わらない日常』という本で、これが2009年5月のこと。ウィキペディアで紹介されているのはこれが最後だ。
なんだかさびしい気分になった。
でも、念のために国立国会図書館サーチ(NDL Search)で探してみると、まだ先があった! 今年4月に『大往生したいなら老人ホーム選びは他人にまかせるな! (光文社新書)』という本が出ている。
ほっとした。
でも、近作2冊は小説じゃないんだなぁ……。
なんとも言えない複雑な気持ちだ。
これまで1冊しか読んだことのない作家、しかも、その1冊もタイトルが別の作家の小説と同じだったのでネタにしようと思ったからという理由で読んだだけだというのに、つい感傷的になってしまった。これも『クローバー・レイン』を読んだせいだ。
ついでなので、というかこっちのほうが本題だと思うが、『クローバー・レイン』の作者について。確か、デビュー作『配達あかずきん』は読んだことがあったはずだが、どういう内容だったか全然記憶にない。いや、全然というのは言いすぎで、書店が舞台の「日常の謎」系のミステリだったことは覚えているのだが、どういう謎が扱われていたのかが思い出せないのだ。それどころか、いつ読んだのかも覚えていない。検索してみると、2007年に未読ながら言及しているので、たぶんその後に読んだのだろうとは思うのだけど……。
そういう状態なので2作目以降は手つかずになっている。『クローバー・レイン』を手に取ったのは偶然に偶然が重なったせいだ。これはいい偶然でした。

*1:「内容の違い」というのは婉曲表現です。