Missa Canonica

バッハ直筆の楽譜が見つかった、というニュースが昨日流れてきて、一瞬「未知の新作か!」と意気込んだのだが、記事を読むと他人の作品だったので、ちょっとがっかりした。

この楽譜は、バッハが50代半ばだった1740年に自分で書き写したもので、地元ドイツの「バッハ資料財団」が、ことし4月、ヴァイセンフェルスという町にある博物館の資料室で発見し、6日、報道機関に公開しました。

財団によりますと、楽譜の曲は、イタリア人作曲家のフランチェスコ・ガスパリーニが1705年につくった教会音楽で、同じ旋律を一定の間隔で追いかけるように繰り返す「カノン」の高度な形式が見られます。

カノンはバッハが残した多くの作品に用いられており、見つかった楽譜は、バッハが晩年になってもみずからの作曲技術を向上させようと、進んだ作品を熱心に研究していたことを示す貴重な資料として注目されています。

ガスパリーニ? 知らないなぁ……。
フランチェスコ・ガスパリーニ - Wikipediaによれば、コレルリドメニコ・スカルラッティなど有名作曲家と師弟関係にあったそうだが、それよりも「1701年からヴェネツィアピエタ慈善院の合唱長をつとめ」という記述に興味を惹かれた。ピエタ慈善院といえば、誰だってヴィヴァルディを連想するだろう。で、アントニオ・ヴィヴァルディ - Wikipediaを見ると、ヴィヴァルディがピエタ院に就職したのは1703年で、1713年にガスパリーニが退職したと書かれているので、この2人はその時期に同じ職場で働く同僚だったということになる。
ところで、上の引用文では、バッハが筆写したのは、カノンを用いた宗教音楽だったということしかわからない。バッハは晩年に「音楽の捧げ物」「フーガの技法」というカノン技法を駆使した傑作をふたつ遺しているので、ガスパリーニがバッハのこれらの作品に影響を与えた可能性を強調する書き方となっているが、別の記事では違ったニュアンスになっている。

発表によると、バッハが筆写したのは、イタリアの作曲家フランチェスコ・ガスパリーニの「ミサ・カノニカ」。ワイセンフェルスにある作曲家ハインリヒ・シュッツの記念館で今年4月に見つかった。

【略】

バッハはライプチヒプロテスタントの教会を拠点に活動していた。1749年に完成した「ロ短調ミサ曲」はカトリックのミサ曲で、なぜ書いたのか謎とされる。財団は「今回の発見は、この曲を書く上でバッハがイタリアの教会音楽の研究を重ねていたことを示す資料」と話している。

バッハが、イタリア人作曲家フランチェスコ・ガスパリーニの「ミサ・カノニカ」(1705年作曲)を1740年頃に写したもの。同資料館は、バッハ晩年の作品がイタリアのミサ曲に影響されたことを裏付けると指摘した。

バッハが晩年の1740年、イタリア・ベネチアの作曲家フランチェスコ・ガスパリーニによるカトリックのミサ曲「ミサ・カノニカ」を書き写したものという。バッハは1749年、最高傑作の一つ「ミサ曲ロ短調」を完成させており、これにミサ・カノニカが影響を与えた可能性を示すものとして注目されている。

いずれもカノンという作曲技法にではなくミサ曲という曲種に着目した書きぶりになっている。
余談だが、プロテスタントのバッハがカトリックのミサ曲を書いた理由として「頼まれたから」という新説を見かけたことがある。

クラシック再入門 名曲の履歴書

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残念ながら、この本にはバッハが誰から「ロ短調ミサ曲」の作曲を依頼されたのかが書かれていない。
閑話休題
ガスパリーニの「ミサ・カノニカ」がどんな音楽なのかは聴いてみないとわからないが、インターネット上で音源を見つけることはできなかった。その代わり、「ミサ・カノニカ」のキリエの楽譜を発見した。「ミサ・カノニカ」というのは「カノン風ミサ曲」という普通名詞だが、同じ作曲家がカノン風ミサ曲に複数作曲しているなら番号を付けるなり何なりして識別できるようにするのがふつうだと思われるので、たぶんバッハが筆写したのはこの曲だと思う。間違っていたらごめんなさい。
楽譜を見ても頭の中で音楽を再生できる技能はないので、「ああ、音符が並んでいるなぁ」という程度の感想しかない。1700年頃の音楽なら通奏低音の伴奏くらいはありそうなものだが、もとから無伴奏だったのか、伴奏抜きに編曲したものなのかは、この楽譜だけからではわからない。説明文には何か書いているようだが、日本語ではないのでやっぱりわからない。
よくわからないもどかしさでフラストレーションが溜まっていたのだが、さらに検索を続けると。こんな記事を見つけた。

これはありがたい。一気に不満が解消した。
めでたしめでたし。